バースのアデラード(羅: Adelardus Bathensis、英:Adelard of Bath、1080年頃 ? 1152年頃)は、12世紀イングランドの自然哲学者で、自身の著作の他に、占星術、天文学、哲学、数学などの古代ギリシア語で書かれアラビア語に訳された作品やもともとアラビア語で書かれた作品をラテン語へ翻訳したことで知られる。アデラードが翻訳した著作はそれまで西欧では知られていないものであった。彼はインドの数体系をはじめてヨーロッパに紹介したことでも知られる。彼は、フランスの伝統的な学派、南イタリアに残っていたギリシア文化、東方のアラブ人の学問という三つの知的伝統の交差点に立っていたといえる[2]。 彼の生きていた時代を考慮に入れると、アデラードの生涯には不明な個所がいくつもあり、解釈の余地を残している。そのため、現在アデラードに帰されている物事の多くは彼自身の証言によって彼に帰されている[3]。呼称に示されているように、彼はローマ帝国時代から続くイングランドの街バースで生まれ、同地で没した。現代の研究者たちは彼の親が誰か決定することをためらっているが、ウェルズの司教の地借りをしていたファストレッドが彼の父だという説が非常にまことしやかに流れている[4]。彼の名前(アデラード)はアングロ・サクソン系の生まれであることを示していて、さらに11世紀イングランドにおいて被支配階級で、知識人階級であったことがわかる[5].[6]。彼はおそらく司教のトゥールのヨハネ バースのアデラードの独自の著作の中には三部作の対話篇があり、プラトンの文体をまねて、彼の甥が登場人物として書かれている。その三部作のうち最初に描かれたのは「同と異について」(羅:De Eodem et Diverso)である。この本はプロトレプティック、つまり哲学を学ぶことを勧める文体で書かれている[11]。本書がボエティウスの『哲学の慰め』を範型としていることはアデラードの語彙や言い回しから明らかである[12]。この『同と異について』はアデラードが旅行から帰還してからトゥール近郊で書いたと考えられているが、南イタリアやシチリアを旅行した後であることを示す証拠があるわけではない[2]。本書は、世俗的な快楽を支持するフィロコスミアと学問を擁護して自由学芸に導くフィロソフィアとの芝居がかった対話という形をとっている。本書を通じて強調されるのはフィロコスミアの「可感的実在」(羅:res)とフィロソフィアの「心的な概念」(羅:verba)との対比である[13]。
背景
主な業績