バージー・ラーオ2世
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バージー・ラーオ2世
Baji Rao II
マラーター王国宰相
バージー・ラーオ2世
在位1796年12月4日 - 1818年6月3日
戴冠式1796年12月4日
別号ペーシュワー

出生1775年1月10日
ダール
死去1851年1月28日
カーンプル近郊ビトゥール
配偶者サラスヴァティー・バーイー
子女ナーナー・サーヒブ(養子)
王朝ペーシュワー朝
父親ラグナート・ラーオ
母親アーナンディー・バーイー
宗教ヒンドゥー教
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バージー・ラーオ2世(マラーティー語:????? ??????? ?????, Baji Rao II, 1775年1月10日 - 1851年1月28日)は、インドデカン地方マラーター王国の世襲における第8 代(最後の)宰相(ペーシュワー、在位:1796年 - 1818年)。マラーター同盟の盟主でもある。ラーオ・パンディト・パンダーム(Rao Pandit Pandham)とも呼ばれる。
生涯
宰相就任

1775年1月10日、バージー・ラーオはマラーター王国の廃位された宰相ラグナート・ラーオとその妃アーナンディー・バーイーの息子として生まれた[1]

父であるラグナート・ラーオは宰相復帰をめざし、同年3月にイギリススーラト条約を結び、彼を失脚させた財務大臣ナーナー・ファドナヴィースとの戦争へと向かった(第一次マラーター戦争)。彼は1782年5月に講和成立するまで戦い続けたが、宰相には復帰できず、ナーナー・ファドナヴィースが王国の実権を握り続けた。

だが、1795年10月に宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンプネーで自殺すると[2]、マラーター諸侯らの間に紛争が起き、バージー・ラーオもこれに参加した。

結局、1796年12月4日にバージー・ラーオがナーナー・ファドナヴィースの支持により、バージー・ラーオ2世として王国の宰相となった[3]。だが、彼の統治は名目上のもので、ナーナー・ファドナヴィースが実際の統治にあたっていた。
マラーター諸侯との争いとプネーからの逃亡

1800年4月にナーナー・ファドナヴィースが死ぬと、バージー・ラーオ2世とマラーター諸侯との関係が著しく悪くなった[4]。ことに、インドールホールカル家との関係はかねてからとても悪く、ヴィトージー・ラーオ・ホールカルは宰相府の領土に襲撃をよくかけていた。

1801年4月、バージー・ラーオ2世はヴィトージー・ラーオ・ホールカルを捕えることに成功し、21日象に踏みつぶさせて殺した[4]。だが、この残虐な処刑はその兄ヤシュワント・ラーオ・ホールカルの怒りを買うこととなった[4]

1802年5月、ヤシュワント・ラーオは宰相府の領土に侵攻し、マーレーガーオンアフマドナガル、プランダル、ナーシクナーラーヤンガーオンネールなどを次々に落とし、プネーに迫った。そして、同年10月25日にバージー・ラーオ2世とシンディア家の軍がヤシュワント・ラーオの軍に敗れ(プネーの戦い)、宰相府プネーが占領されると、バージー・ラーオ2世は逃げざるを得なかった[5]
バセイン条約と第二次マラーター戦争バセイン条約にサインするバージー・ラーオ2世

ヤシュワント・ラーオ・ホールカルに敗れたのち、同月27日にバージー・ラーオ2世は側近とシンディア家の兵ともにラーイガドに行き、そこで一ヶ月過ごした。そして、彼はさらにボンベイを拠点とするイギリスの領土へと逃げた。

そして、1802年12月31日にバージー・ラーオ2世はイギリスの援助を受けるため、軍事保護条約バセイン条約を結び、1803年5月13日にプネーに帰還した[3]

だが、バージー・ラーオ2世が結んだバセイン条約には、マラーター王国の領土割譲なども約してあったため、マラーター諸侯の反感を買うこととなった[6]。味方だったシンディア家もイギリスがマラーター同士の争いに関与してきたことに脅威をおぼえ、宰相府から離反した[6]。もはや、イギリスとマラーター諸侯との争いは不可避であった。

同年8月、イギリスとマラーター諸侯シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家との間に戦闘が起こった(第二次マラーター戦争[4]。しかし、シンディア家とボーンスレー家の軍勢はイギリスとの幾度かの戦闘で敗れ続け、12月にそれぞれ講和条約を結んだ[4]

しかし、ホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルだけは戦争を続行し、彼は戦いを互角に持ち込み、イギリスは戦費増大を恐れる結果となった。そして、両者ともに戦闘が続行不能に陥った時、1805年12月に講和が結ばれ、戦争は終結した[4]
ガーイクワード家の使節殺害とプネー条約

1814年、バージー・ラーオ2世の宰相府とグジャラートガーイクワード家との間で、グジャラートの重要都市アフマダーバードをめぐる争いが起こった[7]。そして、その調停はイギリスによって執り行われることとなった。

だが、1815年7月14日にガーイクワード家から派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう[7][8]。暗殺したその家臣はイギリスによって逮捕され、ボンベイに投獄された[7]

しかし、1816年9月にこの家臣は脱獄し、バージー・ラーオ2世は彼に資金を援助し、シンディア家のダウラト・ラーオ・シンディアとホールカル家のマルハール・ラーオ・ホールカル2世に対して、挙兵してイギリスに共同で立ち向かうこと提案した[7]

この動きはまもなくイギリスに察知され、1817年6月13日にバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約プネー条約を押し付けた[7]


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