バージニア州の歴史
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バージニア州の歴史(バージニアしゅうのれきし)では、現在のアメリカ合衆国バージニア州の地域に、数千年前インディアン部族が住み着いてからの歴史を概説する。
白人の入植

ヨーロッパ人による入植は、1607年イギリス人移民がジェームズタウンを造ったときに始まった。奴隷の労働力を使って栽培されたタバコが利益の出る換金作物となり、北アメリカでも富裕で人口の多いイギリス植民地になっていった。

アメリカ独立戦争のときにイギリスから独立を勝ちとった13植民地の1つになった。他の12植民地よりも多くの国家指導者を輩出し、初期の大統領5人のうち4人、すなわち初代ワシントン、第3代ジェファーソン、第4代マディソンおよび第5代モンローがバージニア出身であった。

19世紀前半、バージニア公共事業局が有料道路、運河および鉄道といった輸送力の改善を計画し資金確保に貢献した。初期開拓履歴の違いのために地域格差が生じ、東部の権力や富に対して、西部の住民は自分達の要求が無視されていると感じるようになった。

奴隷制の問題がまだ歴史の浅い合衆国を2分したとき、バージニア州は1861年に合衆国から脱退することに躊躇していた。実際に脱退した後は、バージニアが南北戦争の主戦場になった。バージニア州西部の諸郡は東部と袂を分かち、ウエストバージニア州を作って1863年には公式に新しい州として、35番目に合衆国への加盟を認められた。

南北戦争の後は他の南部諸州と同様に農業不況を味わい再建のために苦しんだ。19世紀後半、紙巻きタバコに対する人気が上がり、タバコ生産業を賑わせることになった。アメリカ連合国に加わった他の南部諸州と同様、20世紀への変わり目までに黒人黒人)を公共の場で分離し、基本的公民権を奪う法律を成立させた。南北戦争前の州債についてウエストバージニア州に割り当てられる分が1915年合衆国最高裁判所で決定され、1939年までに支払われた。

第二次世界大戦に伴う経済的な刺激が新たに州の繁栄をもたらした。この時北バージニアでは、ノーフォークなど主要な海軍基地や工業経済の拠点が形成され、政府関係の仕事が増えた。

1950年代から1970年代にかけて、黒人の学校における人種分離廃止、公民権獲得の闘争および社会への一体化が大きな社会問題となった。バージニア州指導者の中には「大衆運動」を支持する者もいたが、最終的に公民権運動が勝った。1989年、ダグラス・ワイルダーが黒人としては合衆国でも初めて選挙で選ばれた州知事になった。1980年代までに北バージニアとハンプトン・ローズ地域は、連邦政府の部局や防衛関連産業に関連する雇用増や技術の高度化が幸いして大きな成長と繁栄を遂げた。

政治的には20世紀の大半、保守的な民主党の強い地盤であった。しかし、公民権運動の後で、多くの保守派が共和党に鞍替えし、特に20世紀最後の10年間、まず大統領選挙でさらに地域や州レベルの選挙でもこの傾向が強くなった。21世紀に入ると輸送需要に関わる資金が最も議論を呼ぶ単一問題となった。2007年時点で民主党のティム・ケイン知事は両院とも共和党が多数を占めるバージニア議会と交渉している。アメリカ合衆国議会においては、上院で2大政党が1議席ずつを占め、下院でも両党からの議員数が拮抗している。

2007年はジェームズタウンに初めてイギリス人が恒久的な植民地を開いてから400周年であった。ジェームズタウン2007と呼ばれる祭典は2006年に始まって18ヶ月間という長きにわたった。祭りの催しではバージニアの歴史に対するインディアン、ヨーロッパ人およびアフリカ人の貢献を祝した。イギリス女王エリザベス2世と夫のエディンバラ公フィリップがバージニアを訪れ1957年に350周年を祝ったときの再現をした。
インディアン部族バージニアのインディアン酋長

バージニアとされる新世界の地域には、少なくとも3,000年前から多くのインディアンが住んでいた。人類学者ヘレン・ラウントリーなどによる考古学的また歴史的調査によってこのことが解明されてきた。

16世紀の終わり、バージニアに住んでいたインディアンには、チェロキー族、チェスピアン族、チカホミニー族、マッタポニ族、メヘリン族、モナカン族、ナンスモンド族、ノットウェイ族、パムンキー族、ポヒック族、ポウハタン族、ラッパハンノック族、サポニ族、およびタスカローラ族が含まれていた。インディアンたちはその言語の違いによって3つのグループに分けられる。最大のグループはアルゴンキン語族と呼ばれ10,000人以上がいた。他のグループはイロコイ族(2,500人)およびスー族である[1]

1607年に最初のイギリス人がジェームズタウンを訪れたとき、瀑布線から東のバージニアはアルゴンキン語族が支配していた。ほとんど全ての者はポウハタン連邦と歴史上呼ばれるものに統一されていた。研究者ラウントリーはその政治構造をより正確に表現するために帝国という言葉を使った。16世紀末から17世紀初めにかけて、ワフンスナコックという酋長が約30の種族を征服あるいは仲間につけてこの強大な帝国を作り上げ、東部バージニアの大半を領土とした。ワフンスナコックはこの地域を「テナコマカー」(人口の密集した土地)と呼んだ[2]。ワフンスナコックはポウハタン酋長とも呼ばれた。帝国の存在はモナカン族のような他のインディアン部族によって周期的に脅かされていた幾つかの種族には利点があった。

インディアンはイギリス人とは異なる文化を持っていた。イギリス人との交渉でうまくいったものもあったが、土地の所有と支配および民族間の信頼関係が大きな紛争の種になった。バージニアではほぼ3年周期で干ばつがあった。開拓者はインディアンが苦況にあるときに食べていく備えがないことを理解できなかった。1612年以降、開拓者は土地を切り拓きその重要な換金作物である輸出用のタバコを栽培した。タバコは栄養を必要とする作物であり、数年もすると土地を休ませる必要があったので、常に代わりの土地が必要とされた。このことはインディアンが穀物食料を補うために行う狩りのための森林地帯を減らすことになった。


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