バークレイズ
Barclays PLC
バークレイズ本社ビル カナリーワーフ
種類株式会社
市場情報LSE BARC
バークレイズ(英: Barclays PLC)は、イギリス・ロンドンに本拠を置く国際金融グループ。リテール、 ⇒ホールセール、投資銀行部門のみならず、ウェルスマネジメント、モーゲージ、クレジットなど幅広いサービスを提供する。現在は4つのコアビジネス[注釈 1]により構成される。 1728年に創業。産業革命までは同族経営であった。その後、バークレイズのイニシャティブはおおむねテューク家とグッディナフ家にあった。 今日までいくつもの銀行を吸収してきたが、1990年にはヨーロッパ銀行Europeenne de Banque を買収した[1]。ヨーロッパ銀行はジャコブ・マイエール・ド・ロチルドが1817年に設立したロチルド・フレールであり、1967年からはバンク・ロチルド
概要
また、世界金融危機の2008年に破綻したリーマン・ブラザーズの受け皿というのが野村證券とバークレイズであった。そしてこのころ、バークレイズの銀行家らが英国スチュワードシップ・コードを策定した。
バークレイズの営業圏は世界50か国以上で、本国イギリス等ヨーロッパ各国、アメリカ、中東、ラテンアメリカ、オーストラリア、アジアなどに拠点を持つが、特に南アフリカ共和国のものは企業体力に貢献している。バークレイズの総資産高は世界第2位(2009年)。イギリス3大銀行中、総資産では第1位、時価総額でも第2位を誇る。
1982年に株式公開して以来、バークレイズはロンドン証券取引所の主要リストにあり、FTSE100の上場株式である。ニューヨーク証券取引所にも上場している(LSE: BARC、NYSE: BCS)。 1690年、シティ・オブ・ロンドンでゴールドスミス・バンキング・ビジネスがおこった。ジョン・フリーム
近代
大不況のただ中であった1879年に既存合名会社の有限責任化、つまり合資会社化が認められた。結果として1888年にクエーカー同士の三行で合併がなされ、Barclay, Bevan, Tritton, Ransom, Bouverie & Co が誕生した。そして1896年までに17のクエーカー行と20の個人銀行を吸収してバークレイズ合資会社となった。吸収した銀行の半分以上はガーニー家をパートナーとしていた。バークレイズはオーバーレンド・ガーニーの受け皿になったわけである。なお、吸収された銀行の幾つかはTuke の名をふくんだ。
ガーニー家は当時からノリッジ・ユニオン(現アビバ)の経営に参加していた。 ベアリング恐慌が本位貨幣を争うアメリカを直撃、1896年にJPモルガンとロスチャイルドの拠出を合わせた合衆国の準備金が大ダメージを受けた。イングランド銀行も日銀の預金を継続的に借りるほどであった。 1896年からFrancis Bevan
現代
恐慌と合併
1917年までにバークレイズは17の個人銀行と1つの合名銀行を吸収し、バークレイズ銀行となる。翌年にLondon and Provincial Bank を吸収して、バークレイズの預金高は3億2800万ポンドに達した。1919年、コールウィン委員会の建議により合併要件が厳しくなった。しかしフレデリックは第一次世界大戦の初めから準備を進め、ついに1925年イングランド銀行の反対をおしきって、Anglo-Egyptian Bank とNational Bank of South Africa Limited. を吸収合併した。
1934年にフレデリックが死ぬとWilliam Favill Tuke とEdwin Fisher、そしてSir William Goodenough, 1st Baronet が、それぞれ1936年までと1947年まで、そして1951年まで会長を務めた。ここまでは死ぬまで勤め上げる会長が多かった。1951年にAnthony William Tuke が就任して、1965年にカリフォルニアへ支店を設け、翌年にバークレイカードを世へ送り出した。 バークレイズは総力をあげてグローバル化していった。1968年にユーロクリアができたが、その翌年にバークレイズは、ロンドン手形交換所加盟銀行のひとつ(Martins Bank
英国病の正体
1973年から1993年までは、会長Anthony Favill Tuke がその代理Martin Jacomb へつないだ時代である。アンソニー・テューク・ジュニアはBarclays National Bank of South Africa Limited.(1925年に買収した子会社)の持ち株をアングロ・アメリカンやデビアスへ売却したが、退社してすぐリオ・ティント会長となった。ジェイコムはクラインウォート・ベンソン・ロンズデールの重役であったので、バークレイズでは大券発行にも参加する力をみせた。二人の活躍する間、新聞支配者のベリー一族と結婚したNigel Mobbs がずっといた。ニゲル・モブズは2005年まで生きたが、確かにその間は経営に計画性があった。
1978年アメリカで外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律ができたが(International Banking Act of 1978)、バークレイズには例外規定が適用された。これは、1970年代に先制して州際の支店を開業していた外銀を保護するものであり、IBF構想をめぐりマクファーデン法修正論が提起される契機となった。一方で南アフリカ事業がAmerican Credit Corporation を買収して決済事業に進出した。1981年、Deryk Vander Weyer の肝いりでTimothy Bevan が会長となった。また、Frederick Roger Goodenough がバークレイズの各部門を統制した。かつてフレデリックの採用した分権主義は、グローバリゼーションの進む中でバークレイズ本社と南アフリカ事業が同じような経営を考えるようになるにつれ形だけのものとなり、やがて1985年に本社と南ア事業は互いの商号を統一した。また、この年にビッグバン用インフラBarclays de Zoete Wedd を組織した。翌年にVisaのトラベラーズチェックを買収した。