この項目では、アルバムについて説明しています。楽曲については「バンド・オン・ザ・ラン (曲)」をご覧ください。
『バンド・オン・ザ・ラン』
ポール・マッカートニー&ウイングス の スタジオ・アルバム
リリース アメリカ合衆国 1973年12月5日
イギリス 1973年12月7日
録音.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
1973年9月 (1973-09) - 10月
ラゴス、ナイジェリア
ジャンルロック
時間41分05秒
レーベルアップル・レコード / EMI
プロデュースポール・マッカートニー
専門評論家によるレビュー
All Music Guide link
The Music Box ⇒link
Robert Christgau (C+) ⇒link
Rolling Stone (not rated) ⇒link
ポール・マッカートニー&ウイングス アルバム 年表
レッド・ローズ・スピードウェイ
(1973年 (1973))
バンド・オン・ザ・ラン
(1973年 (1973))
ヴィーナス・アンド・マーズ
(1975年 (1975))
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『バンド・オン・ザ・ラン』(英語: Band on the Run)は、1973年に発売されたポール・マッカートニー&ウイングスのアルバム。ビートルズ解散後のポールのアルバムとしては5作目。ウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス名義を含む)名義では3作目。全英・全米とも1位になり、大ヒットを記録した。 このアルバムはアメリカだけで300万枚以上、全世界では600万枚以上の売上を記録した現時点でビートルズ解散後にポール・マッカートニーが最も商業的に成功したアルバムとなっている。一方で制作過程は決して順調ではなかった。 前作『レッド・ローズ・スピードウェイ』と直後のイギリス・ツアーで大成功を収めたマッカートニーは、7月27日から5週間にわたってスコットランドの農場でセッションを開始した。ところが、マッカートニーと演奏について意見を対立させたヘンリー・マカロック
解説
メンバー2人が相次いで脱退したにもかかわらず、マッカートニーは妻のリンダとデニー・レインを伴い予定通りラゴスに到着した。しかし竣工しているはずのスタジオは完成しておらず、強盗にデモテープや歌詞を書いたノートを強奪されてしまった。さらには録音の最中に豪雨によりスタジオが停電してしまうなど続々と困難に直面した。しかし同行していたレコーディング・エンジニアのジェフ・エメリックの尽力により作業を進めることができた。
リードギタリストとドラマーを失ったマッカートニーは、ソロ・アルバム制作時と同様に様々な楽器を演奏して[1]ベーシック・トラックを完成させた。10月にはトニー・ヴィスコンティにオーケストレーションを依頼してオーバーダビング行い、最後にエメリックがミックス・ダウンを行って完成させた。
アルバムは年末商戦に合わせて12月5日に発売された。ところがアメリカでは売上増を狙ってヒット・シングル「愛しのヘレン」をアルバムに収めたものの、発売から2週間以上たったクリスマス直前にビルボード誌初登場33位と、期待に反して売り上げが伸び悩んだ。一方イギリスでも12月22日にアルバム・チャート第9位まで上昇したが、翌週には第13位に落ちてしまった。レコード会社はこの状況を打破するためにはアルバムからのシングル・カットが必要と考え、マッカートニーも仕方なく承諾した[2]。
第1弾シングル「ジェット」は1974年1月28日にアメリカで発売され、2月9日には初登場69位、3月30日には7位にまで上昇した。このてこ入れが功を奏し、アルバムは発売から4ヶ月あまりたった4月13日にビルボード誌で第1位を獲得した。さらに4月20日に第2弾シングル「バンド・オン・ザ・ラン」が初登場68位でチャートに到達すると、6月8日には第1位に到達、アルバムも再び首位に返り咲いた。結局断続的に4週間第1位を獲得し、トップ10内にも32週間ランクされ、1974年度年間第3位を記録した。