バンデルレイ・デ・リマ
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バンデルレイ・デ・リマ

2004年9月、凱旋パレードでのデ・リマ
選手情報
フルネームバンデルレイ・コルデイロ・デ・リマ
ラテン文字Vanderlei Cordeiro de Lima
国籍 ブラジル
種目マラソン
生年月日 (1969-07-04) 1969年7月4日(54歳)[注釈 1]
生誕地パラナ州クルゼイロ・ド・オエステ(ポルトガル語版)
身長168cm
体重54kg
自己ベスト
3000m8分02秒81 (1998年)
10000m28分08秒03 (1997年)
マラソン2時間08分31秒 (1998年)

獲得メダル

ブラジル
陸上競技
オリンピック
2004マラソン


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バンデルレイ・コルデイロ・デ・リマ(Vanderlei Cordeiro de Lima、1969年7月4日 - )は、ブラジル長距離走選手である。2004年アテネオリンピックの男子マラソン銅メダルを獲得した。国際オリンピック委員会(IOC)の特別賞ピエール・ド・クーベルタン・メダルを受賞した唯一の南米人選手[注釈 2]である。
2004年アテネオリンピック

2004年アテネオリンピックの男子マラソンに出場。当時の世界記録保持者ポール・テルガトアトランタ大会銅、シドニー大会銀のエリック・ワイナイナ、アトランタ大会銀の李鳳柱ヨーロッパチャンピオンステファノ・バルディーニなど強豪が集うレースだったが、半分手前で集団から抜け出したデ・リマは、順調に差を広げていった。

ゴールのパナシナイコスタジアムまで7キロ余りの35キロ地点で、他のランナーとの差は25-30秒、約150メートルあった。しかしそのとき、突如沿道から乱入したカトリック教会の聖職者ニール・ホランから抱きつかれ、コース外に押し出されるという走行妨害を受けた。ギリシャ人観客のポリビオス・コシヴァスに助けられ[1]、直後にレースへ復帰するものの、このトラブルによって10秒前後タイムロスが生じたうえ、集中力が奪われ、ペースを崩してしまった[2]。この結果、イタリアのステファノ・バルディーニ、アメリカのメブ・ケフレジキに抜かれ、3位でゴールし銅メダルに終わった[3]

レース後の記者会見では、「完走できて、オリンピックのメダルが獲得出来たことがなによりも嬉しく思っています」「この銅メダルは『まだ私が金メダルを取ってはいけない』という、神からの試練なんです」と語り[4]、ホランを非難するコメントは一切しなかった。

同日IOCは、デ・リマが示した並外れたフェアプレーとオリンピック価値に対し、特別賞ピエール・ド・クーベルタン・メダルを授与することを発表した[2][5][6]。同年12月7日、リオデジャネイロで、彼の名誉を称える公式式典で贈呈された。この式典にはコシヴァスも招待され参加した[7][8][9]

ブラジルのオリンピック委員会は銅メダルの代わりに金メダルを授与するよう求めたが、これは実現しなかった[10]

なお、レースを妨害したホランは直ちに逮捕された[2]。この人物は、前年のF1イギリスグランプリのレース中にもコース内に乱入し、逮捕された前歴があった[2]
経歴

1969年、パラナ州のクルゼイロドオエステで農業を営む両親のもとに生まれた[11]

1973年に同州のタピラに移住した。幼少期の夢はプロサッカー選手だった[12]。農場で小さな仕事をしながら家計を助けた。

14歳のとき、地元の体育教師の勧めで陸上競技を本格的に始め、州のイベントで初めて優勝した[12]
陸上選手として

当初はクロスカントリー競走の選手であった。1989年と1992年の世界クロスカントリー選手権にブラジル代表として出場した。1993年の南米クロスカントリー選手権では銅メダルを獲得し、1995年には同大会で優勝を果たした[13]

1992年、陸上競技コーチのリカルド・ダンジェロに出会い、その後師事することとなった。

マラソンに専念するようになったのは、ある偶然からだった。

1994年、フランスのランスマラソン(英語版)に参加したが、それはレースの半分をペースメーカーとして走る「ラビット」役としてだった[12]。しかしレース中盤、あまりの気持ちよさに、そのまま走り続けることに決め、2時間11分6秒で優勝した[12][14]

1996年、東京国際マラソンでは、当時の南米記録である2時間08分38秒で優勝した[14]

同年のアトランタオリンピックでは47位に終わった[12][15]。「間違いなく素晴らしい経験だったが、レース中に靴の調子が悪くなった」と語った[12]

1997年、アテネで開催された世界陸上競技選手権大会に出場したが23位に終わった[12]


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