バンゴー市
City of Bangor
バンゴー市中心街
愛称 : 東部の女王の市(The Queen City of the East)
位置
メイン州内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度48分13秒 西経68度46分13秒 / 北緯44.80361度 西経68.77028度 / 44.80361; -68.77028
バンゴー(英: Bangor、英語発音: [?ba???r], |BANG|gor または英語発音: [?ba???r], BANG|g?r [2]、バンゴール、バンゴア、またはバンガーとも表記される)は、アメリカ合衆国メイン州の都市。ペノブスコット郡の郡庁所在地である。人口は3万1753人(2020年)で、州第3の都市である。ペノブスコット郡全体で構成されるバンゴー都市圏の中核である。
バンゴーの影響力は人口密度の低い州東部と北部全域に及んでいる。ペノブスコット、ピスカタキス、ハンコック、アルーストック、およびワシントンの5郡地域の人口は33万人以上であり、その中でバンゴーは最大の市場町、物流センター、交通中継点および報道の中心である。
バンゴーはペノブスコット湾からペノブスコット川を48キロメートル遡り、ケンダスキーグ川と合流する所にある。隣のブルーアー市とは橋で繋がれている。その他の郊外町としては、オロノ(メイン大学がある)、ハムデン、ハーモン、オールドタウン、グレンバーンおよびビージーがある。 現在のバンゴー市がある地域にはペノブスコット族インディアンが長い間住んでおり、現在も近くにあるペノブスコット・インディアン居留地内の部族用地を占有している。この地に初めてヨーロッパ人が訪れたのは1524年のポルトガル人エステバン・ゴメスであり、その後1605年のサミュエル・ド・シャンプランが続いた。シャンプランは現在バンゴーがある所にあると考えた伝説の都市ノランベガが探していた。フランスの宣教師がペノブスコット族の間に入り、ペノブスコット川流域は1750年までフランスとイギリスが領有を争い、ニューイングランドの一部となったことでは最後の地域だった。 バンゴーとなったイギリス系アメリカ人の開拓地は1769年にジェイコブ・バスウェルによって始められ、当初はコンデスキーグ(あるいはケンダスキーグ)・プランテーションと呼ばれた[3]。1772年までに12の家族が入り、製材所、店舗および学校があった。この都市に開拓地で最初の子供メアリー・ハワードが生まれた。1790年、デイビッド・ウォールがバスウェルのことを「年寄りのいまいましい灰色髪の地獄の盗人」と呼び、セス・ノーブル神父を「いまいましい悪党」と呼んだことでバスウェルが訴え出、初めての訴訟となった[4]。 1775年からは。コンデスキーグが条約交渉の場となり、その条約でペノブスコット族は先祖からの土地の大半を諦めることになり、土地の所有権移行はメインが州になった1820年頃に完了した。ペノブスコット族にはバンゴーから上流の島、開拓者が「インディアン・オールドタウン」と呼ぶ所にある主要集落のみが残されることになった。最終的にはオールドタウンという名前を採用した白人開拓地がその集落からペノブスコット川対岸に置かれ、集落は「インディアン・アイランド」と呼ばれるようになり、現在もペノブスコット族居留地となっている[5]。 アメリカ独立戦争の1779年、大陸軍のペノブスコット遠征隊がカスティーンの戦いで潰走させられてペノブスコット川を川上に逃亡し、遠征隊が使っていた船(少なくとも9隻)の最後のものはバンゴーにいたイギリス艦隊に捕獲または焼却された。このとき森の中に逃亡した生き残りの中にポール・リビアがいた[6]。このときの大陸軍艦船に搭載していた大砲1門がバンゴー中心街の公園に据えられ、沈められた船に積んでいた工作品は今でも河床から回収され続けており、この場所は国定歴史史跡に登録されている。 コンデスキーグは住民567人に成長した1791年に町として編入されることにした[7]。伝説に拠れば、開拓者達はセス・ノーブル牧師をボストンに派遣し、この町を「サンベリー」と名付ける請願を行わせた(当時メイン地区はマサチューセッツ州の一部だった)。ノーブルのお気に入りの歌は「バンゴー」(バンゴーの交唱聖歌集に因む)と題するウィリアム・タンシュアによる賛美歌であり、酒に酔っていたかあるいは誤解していたかで、町の名前をバンゴーにしてしまった[8]。 バンゴーは米英戦争の間に、ハムデンの戦いで地元民兵隊が潰走した後に、イギリス軍に襲われた[7]。選出された者達が町の降伏を受け容れた後、イギリス軍は30時間店舗や住居を襲い、港の船や船台に乗っていた未完の船を焼くと脅かした。選出された者達は船台の船が燃やされると町に拡がることを恐れたので、保証書を書いて11月末までに未完の船を仕上げて届けるとイギリス軍に約束することで取引をした。イギリス軍は耐航海性のある船をペノブスコット川の中央に浮かべてその幾隻かには火を付け、その他の船には馬や牛を乗せてカスティーンの基地に戻った。そこの基地は戦後の1815年4月26日まで占領しており、その後にカナダに帰った。イギリス軍がバンゴーの町に留まったのはわずか30時間だったが、ある証言に拠ると、戦勝祝いのさなかで兵士達が土地のラム酒にたいそう酔っぱらい、士官達が反撃を食らったらとても抵抗できないと考えたからだとのことである[9]。 19世紀、バンゴーは材木積出港として繁栄し、自ら「世界の製材首都」と名乗るようになった。土地の製材所(300から400もあった)の大半は、オロノ、オールドタウン、ブラッドレーおよびミルフォードのような上流の町にあり、バンゴーは資本、港湾施設、物資の供給および娯楽を管理していた。バンゴーの資本家は森林の大半も所有していた。バンゴー木材の主な市場は東海岸の都市であり、ボストンやニューヨークは大半がメインの木材で建設されたが、少なからぬ量がカリブ海に直接運ばれた。カリフォルニア・ゴールドラッシュの時には建設用木材がケープホーンを回って運ばれたときは特に活発になった。その後カリフォルニア州北部や、オレゴン州とワシントン州にも製材所が造られた。バンゴー市民はその後メインの製材文化を太平洋岸北西部に移植しゴールドラッシュにも自ら参加した。ワシントン州バンゴー、カリフォルニア州バンゴーおよびネバダ州リトルバンゴーはこのような経過の遺産である[10]。 水夫や木樵達がその乱暴さで町の評判を拡げた。その馴染みの地盤は「悪魔の半エーカー」と呼ばれた[7](これと同じ名前がほぼ同じ時期にペンシルベニア州のデビルズ・ハーフエーカーに与えられた)。
歴史
前史から植民地時代
製材業1875年のバンゴー