バロック
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この項目では、ヨーロッパでの文化様式について説明しています。その他のバロックについては「バロック (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ピーテル・パウル・ルーベンス東方三博士の礼拝』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。

バロック(: barocco, : baroque : Baroque, : Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアローママントヴァヴェネツィアフィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻絵画文学建築音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。
バロックという概念の誕生と発展

バロックという語は、真珠宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた[1]。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある[2]

現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった[3]

1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」[4] と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」[5] という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』[6] においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。

さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった[7]皇后ウジェニーは気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた[注釈 1]。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。

ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した[8]。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。
始まりローマジェズ教会ファサード。バロック様式の教会としては初めてのものであったと考えられている(1580年、ジャコモ・デッラ・ポルタ)。

バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。

(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている[誰?]。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.
拡散

バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された[9]

1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」(≪ Decret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes ≫.)である。つまりは対抗宗教改革の芸術であった。しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。

世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。

バロック様式の魅力は、16世紀のマニエリスム芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。


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