バレー方面作戦
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ストーンウォール・ジャクソン将軍

バレー方面作戦(バレーほうめんさくせん、英:Valley Campaign)は、南北戦争の初期1862年春に、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍がバージニア州シェナンドー・バレーで輝かしい戦果を挙げた作戦である。ジャクソンの17,000名の部隊は大胆で電撃的な動きを行って、幾つかの小さな戦いに勝利し、3個軍60,000名以上の北軍兵力がリッチモンド攻撃に参加することを阻止した。
背景

1862年春は「アメリカ連合国の士気は。。。最低に落ちており[1]」、「連合が存続できるかどうかの見通しは暗かった[2]。」1861年の夏は有利に運んでいた(特に第一次ブルランの戦い)が、それも急速に尻すぼみとなっていた。西部戦線では、ユリシーズ・グラント将軍ほかが指揮する北軍が南部の領域に進入し、ドネルソン砦の戦いシャイローの戦いで重要な勝利を収めていた。東部戦線では、ジョージ・マクレラン少将が非常に強力なポトマック軍主力(第2軍団第3軍団及び第4軍団)を率いて南東からリッチモンドに迫っており(半島方面作戦)、アービン・マクドウェル少将の大型の軍団(ポトマック軍第1軍団)も北からリッチモンドを窺い、ナサニエル・バンクス少将の軍団(ポトマック軍第5軍団)はシェナンドー・バレーを脅かしていた。しかし、ジャクソン隷下の南軍部隊の「戦意は旺盛」であり[3]、この春のバレーにおけるジャクソンの活躍は、北軍の作戦を頓挫させ、南軍の士気を高める一助となった[4]
当初の動き

1861年11月4日[5]、ジャクソンはバレー方面の指揮に就き、ウィンチェスターに司令部を置いた。ジャクソンは最近までバージニア州立軍学校の教授をしており、第一次ブル・ランの戦いでにわかに英雄になったが、人生のほとんどの期間バレーに住んでいたため、その地形にも詳しかった。ジャクソンの配下部隊には、ストーンウォール旅団とさまざまな民兵隊があった。12月、ウィリアム・ローリング准将とその6,000名の増援を受けたが、それでも攻撃的な作戦を採るには不足していた。北軍のバンクスの部隊がポトマック川の北に留まっている間に、ジャクソンの部下であるターナー・アシュビー大佐の騎兵隊がチェサピーク・オハイオ運河やボルチモア・オハイオ鉄道を襲撃した。ジャクソンの部隊は北軍のロムニーとバスの2つの小さな前哨基地を攻めてみたが、決着は付かなかった[6]

バンクス軍は2月後半になってポトマック川を渡り、運河や鉄道をアシュビーから守るために南に移動した。ジャクソンの部隊はマナサスにあったジョセフ・ジョンストンの軍の左翼という位置付けで動いてたが(ウィンチェスター南西20マイルのストラスバーグからマナサスまでは、マナサスギャップ鉄道で結ばれていた)、ジョンストン軍が3月にカルペパーに移動すると、ウィンチェスターにいたジャクソンの部隊は孤立した。1862年3月12日、バンクスは南西へ(バレーを遡る方向へ)の進撃を続けウィンチェスターを占領した。ジャクソンはすでにバレーパイクを通ってストラスバーグまで撤退していた。バンクスの受けていた命令は、マクレランの半島方面作戦全体の戦略の一環として、さらに南へ進撃しジャクソンをバレーから追い出すことであった。これに成功した後は、撤退してワシントンD.C.に近い陣地に戻り、守備に就くことになっていた。3月17日にウィンチェスターからバンクス配下のジェイムズ・シールズ准将指揮する強力な前衛部隊(1個師団)が南下を始め、ほぼ同じ時期にマクレラン軍は水陸両用部隊でバージニア半島への侵攻を始めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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