バレーボール
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バレーボール
バレーボール
統括団体国際バレーボール連盟
通称バレー、排球
起源1895年、アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ホルヨーク
特徴
身体接触無
選手数6人
男女混合有
ボールバレーボール (大きさは異なる)
実施状況
オリンピック1964年
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バレーボール(英語: Volleyball ヴァリボール)は、ネット越しにボールを打ち合うチームスポーツである。3回以内で相手コートに返球しあうことで点数を競う。大抵は1チーム6人で行われる[注釈 1]。略称はバレー[1]
概要

バレーボールは、1895年に子供、女性、高齢者でも楽しめるスポーツとして、アメリカの体育教師であるウィリアム・G・モーガンによって考案された。

試合では9メートルと18メートルのエリアを、中央をネットで分けたコートを使う。ネットの高さは年齢や性別などによって異なるが、大体2メートルから2.43メートルの間で設定される。このネットには試合中いかなる部分も触れてはならない。チームの人数は6人制や9人制があるが、6人制が主流である。

バレーボールは球技で唯一ボールを落としてはならないスポーツであり、またボールを持つことや同一プレイヤーが2回連続で触ることはできない。これらの基本的なルールのもとラリーは行われる。ラリーはボールを打つこと(サーブ)から始まり、サーブを受けるチームが3回以内に相手コート内に返球し、以後コート内に落ちるかコート外に落ちる、もしくはいずれかのチームが反則を犯すまでラリーは続く。ラリーが終わるとラリーを制したチームに1点が加算され、25点を先に得たチームがセットを取る。先に3セット先取したチームがその試合に勝つ。(5セットマッチ)
歴史ウィリアム・G・モーガン

バレーボールは、1895年、子供、女性、高齢者も気軽に楽しめる室内スポーツとして、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ホルヨークYMCAで当時25歳のアスレティックディレクター、ウィリアム・G・モーガンによって考案された。

発祥の日は特定されていないが、元になった「ミントン」が1895年の夏にYMCAキャンプ研修会で初めて紹介されていること、モーガンのホルヨーク着任が長男ルフス誕生(8月29日)より後とされていること、モーガンのホルヨークへの転任が報じられているのが1895年10月のYMCA会報であること、10月23日の地元紙「ホルヨーク・デイリー・エクスプレス」にはモーガンの活動のことが掲載されていること、積雪により屋外で野球アメリカンフットボールがプレーできない「冬季向け」のゲームとして考案されたことから、秋から冬と考えられる。

当初の名称はMintonette(ミントネット)。これは1895年、インドに派遣されていたマッコノーイによって紹介された「ミントン」(羽毛球を使った5人制のバドミントン)に由来する。バスケットボールはモーガンをYMCAに誘ったジェームズ・ネイスミスが1891年に冬期の屋内スポーツとして考案し、ラグビーなどで見られるタックルなどのラフプレーを防ぐためボールを保持したまま走れないようにするなどレクリエーション要素を考慮していた。しかしバスケットボールは主に男子学生向けの競技であり、身体的な接触による激しいプレーが好まれる風潮もあって、モーガンが受け持っていたホルヨークYMCAビジネスマンクラス(25歳から40歳)には不向きな競技となっていた。YMCAでは大人数で気軽に楽しむことができ、身体接触がない安全なゲームを必要としていた。モーガンは学生がバスケットボール用のボールの中にある軽量なチューブで遊んでいる姿をヒントに、バドミントンのほか、テニスなどネットで対戦相手と区切られているスポーツのルールを参考にしたスポーツを考案した[2]。このころのルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、相手コートに返す際の回数は決まっておらず、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。しかしながら、当初から得点が入るのはサーブ権があるときのみ(サイドアウト制)であり、バドミントンの影響が大きい。この時点では、「味方にパスが可能、素手、ポールを使う」というミントン系のスポーツだった。

1896年7月、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開した。モーガンは当初このゲームをミントネット(Mintonette、ミントンもどき)と名付けたが、YMCAトレーニングスクール教官であるハルステッド博士の提案を受け、名称をバレー・ボール(ボレー・ボール、volley ball)に改めた。バレーボールのバレーというのは、テニスのボレー(ボールを地面につく前に打ち返すこと)からきている[2]1952年に現在のようにバレーボール(volleyball)と1語で表すようになった。

ネットの高さは当初6フィート6インチ(198センチメートル)だったが、1900年に7フィート6インチ(229センチメートル)となった。

バレーボールは各地に点在するYMCAを通じてアメリカ全土に広まっていき、1900年カナダ1906年キューバに紹介された。また、YMCAの指導者により1910年にフィリピンに、1913年に中国に紹介された。

1912年、アメリカでローテーションルールが導入された。

バレーボールの歴史において最大無二のルール変更は1912年にフィリピンで導入された「3回以内で相手コートに返球」というルールであり、これによりバレーボールはレクリエーションから競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも1917年、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンにより提案され、1922年までには導入された。また、今日あらゆるチームが実施している「セット&スパイク」戦術は1916年にフィリピンで初めて実行された。

最初の公式大会は1913年、マニラで行われた「東洋オリンピック」においてであり、16人制で行われ、フィリピンと中華民国が参加した。

1922年、アメリカで最初の公式大会「全米YMCA選手権」が開催された。発明後27年も経っているのは「3回以内返球」ルールにより、バレーボールが初めて競技スポーツになったことを示している。このときには人数は6人制、15点制、ネットの高さは8フィート(244センチメートル)となっていた。第6回極東選手権競技大会(大阪府)での女子バレーボールの試合(1923年)。帽子・スカート・タイツのユニフォームを着て、屋外で開催されている。

日本にバレーボールが紹介されたのは1913年のことで、YMCA体育主事のF・H・ブラウンによってもたらされた。

YMCAの外部に広まったのは1917年の極東選手権(「東洋オリンピック」から改称)を多くの体育指導者が観戦したことによる。大会を見てきた指導者たちが主に女子を熱心に指導し、1919年には最初の単独大会である「兵庫県女子中等学校排球競技会」が開催された。

1921年には男子のみだが、「全日本排球選手権大会」が開催された。

1917年の極東選手権の際は、参加はしたが他競技とかけもちの選手ばかりであり、戦術にも劣り惨敗した。男子は低調で、1919年は不参加、第5回(1921年)は12人制で実施されたが、このときはバスケットボールの選手が出発前に一度だけ指導を受けての形式的な参加だった。

1923年の第6回極東選手権(大阪)では日本はいまだにセットアンドスパイク戦術を実施しておらず男子は惨敗したが、エキシビジョンの女子の部で日本の姫路高女が優勝し、女子バレーボールの普及に多大な影響を与え、各地で女子バレーボール大会が開催されていく。

1925年の明治神宮競技大会からは9人制となり、1927年からは極東選手権も9人制となった。

日本では1930年からサイドアウト制が廃止され、ラリーポイント制が導入された。極東選手権でも1934年にラリーポイント制となったが、満洲国加盟問題で紛糾し、極東選手権はこの1934年第10回大会をもって廃止となった。

ヨーロッパにバレーボールが紹介されたのは1920年ごろで、第一次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリアチェコスロバキアポーランドソビエト連邦へと普及していった。このころにはチームの人数も6人と決まっており、すでに現在の6人制バレーボールに近いものができあがっていた。ソビエトでは1925年ロシア共産党の中央委員会が「100万人のバレーボール」のスローガンを掲げてソ連バレーボール協会を設立し、本格的にバレーボールの発展に取り組んだ。

バレーボールは世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、1924年パリ五輪ではアメリカのスポーツとして紹介された。

1947年には国際バレーボール連盟が結成され、アメリカ式のルールを修正し国際ルールができあがった。

1949年に第1回バレーボール世界選手権男子)がチェコスロバキアで行われた。日本が国際バレーボール連盟に加盟したのは1951年であった。当時、日本のバレーボールの主流は9人制であり、国際試合で使われる6人制バレーボールはまだよく知られていなかった。

1950年代に入ると、東欧諸国ではソ連の高さとパワーに対抗するために技術開発が進められるようになった。特にチェコスロバキアは次々と新しい技術の開発に着手し、速攻、フェイント、ブロックアウトなどの戦術を編み出した。


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