バルパライソ
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バルパライソ
Valparaiso



市旗市章

愛称 : 太平洋の宝石、バルポ
位置

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯33度03分 西経71度37分 / 南緯33.050度 西経71.617度 / -33.050; -71.617
行政
 チリ
  バルパライソ州
 市バルパライソ
地理
面積 
  市域401.6 km2
人口
人口(2017年現在)
  市域251,177人
    人口密度  5,235.04人/km2
  都市圏952,000人
その他
等時帯CLT (UTC-4)
夏時間CLST (UTC-3)
公式ウェブサイト : Municipality of Valparaiso

バルパライソ海港都市の歴史的な町並み
チリ

バルパライソの港
英名Historic Quarter of the Seaport City of Valparaiso
仏名Quartier historique de la ville portuaire de Valparaiso
登録区分文化遺産
登録基準(3)
登録年2003年
備考南緯33度2分46秒 西経71度37分20秒 / 南緯33.04611度 西経71.62222度 / -33.04611; -71.62222
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示

バルパライソ(Valparaiso)はチリ中部のバルパライソ州にあり、首都サンティアゴ・デ・チレの西方約120kmの太平洋に面した都市。バルパライーソとも表記される。

地名は日本語に訳すと「天国の谷」を意味する[1]。国会が所在し、チリの立法府としての役割を果たしている。人口25万人(2017年時点)。太平洋に面した港湾都市であり、迷路のように入り組んだ歴史のある美しい街並が2003年に、UNESCO世界遺産に「バルパライソ海港都市の歴史的な町並み」として登録された。

近郊に保養・観光リゾート都市であるビニャ・デル・マールがある。
歴史

最初にバルパライソ湾周辺に住みついた民族はインディオのピクンチェ族(スペイン語版)と思われる。彼らは農業で生活を営んでいた。他の説では漁業で生活をしていた遊牧民のチャンゴ族とも言われている。

1536年、最初にチリを発見し探検をしたヨーロッパ人であると考えられているディエゴ・デ・アルマグロによって送り出された補給船「サンティアギージョ号(Santiaguillo)」に乗ったスペイン人探検家がこの地にたどり着いた。この補給船は、フアン・デ・サアベドラ(Juan de Saavedra)の命で、アルマグロの遠征のための人員と物資を運んでいた。サアベドラは彼の生まれ故郷であるスペイン、クエンカ県にあったバルパライソ・デ・アリバ村にちなんで、この場所をバルパライソと名づけた。

スペイン植民地時代、バルパライソはわずか2、3の家や教会があるだけの小さな村に過ぎなかった。1818年にチリがスペインから独立すると、街は設立間もないチリ海軍の主要港となり、それまではスペインとその植民地のみに制限されていた国際貿易の制限も解除され、他国にも開かれた。

1834年7月23日ダーウィンを乗せたイギリス海軍ビーグル号が本地に到着した[2]

ほどなくして、バルパライソはマゼラン海峡ホーン岬を経由して南米大陸を廻る船にとって望ましい経由地となった。1848年から1858年に起きたカリフォルニアのゴールドラッシュでは、物資を供給し、これを支援するために重要な場所となった。主要港としての役割に加え、バルパライソは多くのヨーロッパ諸国、特にイギリス、ドイツ、フランス、スイス、イタリアからの移民も受け入れた。

多くの国々からの移民が、スペインやアメリカ・インディアンを起源としていた地域文化を大きく変え、チリに最初の非カトリック教徒や反逆者の墓が建てられたりもした。移民の各言語による新聞も発刊された。チリで最初のカトリック系の私学校、ル・コレージュ・デ・サクレ・クール(Le College des Sacres C?urs)が、フランス系移民により創設され、その後170年間存続した。スコットランドとドイツからの移民により最初の非宗教系の学校がそれぞれ創設された。スポーツの面でも、イングランド移民によりサッカーがもたらされた。移民によって、最初の志願制の消防団も結成された。建築物には、欧州の様々な国の様式が組み込まれ、バルパライソは他のチリの都市よりも多様な建築物を有するようになった。

チンチャ諸島戦争(スペイン語版、英語版)中には、スペイン海軍によるバルパライソ砲撃(スペイン語版、英語版)が行なわれた。

1906年8月18日、大地震がバルパライソを襲い、様々な物的な損害が出て、数千人の犠牲者を出した。アメリカ系の子孫である医者カルロス・ヴァン・ブレン(Carlos Van Buren)は、地震の被災者に対する医療活動に従事した。彼は1912年に近代的なカルロス・ヴァン・ブレン病院を設立した。

バルパライソの商業的な繁栄期は、1914年のパナマ運河の開通後に終わりを迎えた。マゼラン海峡通過のリスクを避けるために、船舶はパナマ運河を通過するようになった。港の使用や船の交通量が激減し、街の経済は衰退した。パナマ運河完成後は重要度が低下し、人口減少が続いた。


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