バルバロス・ハイレッディン
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バルバロス・ハイレッディン
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バルバロス・ハイレッディン
渾名ハイレッディン・バルバロッサ
生誕1475年
オスマン帝国, レスボス島
死没 (1546-07-04) 1546年7月4日(71歳没)
オスマン帝国. ビュユクデレ(英語版)
所属組織オスマン帝国海軍
最終階級提督
戦闘プレヴェザの海戦
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バルバロス・ハイレッディン(アラビア語: ??? ????? ??????‎、Khayr ad-Din Barbarus、ヨーロッパなどではハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa), 1475年 ? 1546年7月4日)は、北アフリカ一帯の海を支配した海賊で、後のオスマン帝国提督。「バルバロス」(赤髯、またはバルバリアの王の意)と呼ばれ、バルバリア(北アフリカ)の海賊たち(バルバリア海賊)の中でもヨーロッパ人から特におそれられ、1538年スペインとのプレヴェザの海戦の勝利を導いた。

バルバロス・オルチ(ウルージ、Aruj, 1474年 - 1518年)とは兄弟で、地中海域では海賊「バルバロス兄弟」として知れ渡っていた。ギリシャのミディルリ島(現在のレスボス島)出身である[1]
名前の表記

アラビア語風の読み方でバルバロス・ハイレッディン(??? ????? Khair ad Din)などとする場合もあるが、日本で刊行されている文献では、バルバロス・ハイレッティン[2]、ハイレッティン・パシャ[3]、ハイレッティン[4]など、現代トルコ語風の読み方でハイレッティン(Hayrettin)と表記することが多い。欧州で通称されるハイレッディン・バルバロッサのバルバロッサはイタリア語で赤い髭の意。
青年期

エーゲ海のレスボス島の出身といわれる。父親ヤークープ・アーガー(英語版)の祖先はギリシア人、アルバニア人、トルコ人の諸説あり、スィパーヒーだった。母親はミティリーニ出身の正教徒聖職者の寡婦で、ヤークープ・アーガーと再婚した。夫妻は2人の娘と4人の息子をもうけた。

ヤークープは4人の息子に、イスハーク、ウルージ、フズール、イリヤスと名付けた[5]。三男のフズールが、後のハイレッディンである[6]。兄弟4人全員船乗りとなり、ロドス騎士団を相手とする私掠船で活動した。長男イスハークはミティリーニで、次男と末のウルージとイリヤスはアナトリア、レバント、シリア、エジプトで活動した。フズールは主にテッサロニキを拠点にエーゲ海で活動した。その後イリヤスはロドス騎士団の攻撃で命を落とした[5]。次男ウルージはオスマン帝国の皇子コルクトに18隻のガレー船を与えられ、ロドス騎士団を襲撃した。コルクトがマニサ知事となるとウルージは24隻のガレー船を与えられ、イズミルを拠点としてイタリア半島のアプリアに遠征した。
チュニジア時代

1503年ウルージはジェルバ島を新たな根拠地とし、フズールが合流した。1504年、兄弟は戦利品の5分の1を差し出すことを条件に、チュニジアのハフス朝のスルタンからラ・グレット港の使用許可を認められた[7]。ジェルバ島とラ・グレットを拠点に西地中海で私掠船活動を展開し、教皇船団、イタリア半島各地を襲撃・拿捕した。1509年長男イスハークもミティリーニを離れ、ラ・グレットで兄弟に合流した。1504年から1510年の間、スペインのムスリムを北アフリカに運ぶ活動でウルージが名声を博し、Baba Aruj (Father Aruj)と呼ばれるようになり、このBaba Arujが訛ってバルバロッサと呼ばれるようになったと言われる[8]。ウルージの死後、ハイレッディンは兄のあだ名を引き継ぐことになる[8]

1511年8月、兄弟はシチリア島東南のPassero岬に上陸し、スペイン人の攻撃をアルジェリア北岸のベジャイアオランアルジェ で撃退した。1511年8月アルジェでは南イタリアのカラブリア地域に上陸した。翌1512年8月には追放されていた前ベジャイアの支配者がスペイン人放逐の為に兄弟を招き、その時の戦闘でウルージは左腕を失った。この一件で彼は、Gumu? Kol (トルコ語で“銀の腕”)という渾名がついた。兄弟達はイベリア半島沿岸を襲撃し、Tabarca島を拠点としていたジェノヴァ人一家の船を拿捕、メノルカ島 に上陸し海辺の城を奪取し、ジェノヴァ近郊でジェノヴァ籍のガレー船を拿捕した。彼らは弾薬とガレー船を次々と蓄えていった。1514年にはフランスに向かう英国船を拿捕し、バレンシアに上陸、その後ジブラルタル近くのマラガでスペイン人ガレー船を拿捕した。1513年と14年にはアルジェの東にあるCherchellを新しい拠点として、1000人のトルコ兵と12のガレー船でベジャイアのスペイン人の要塞を壊滅させ、チュニジアのマフディーヤ、サルディニャ、シチリア島、バレアレス諸島を襲撃した。1515年にウルージはオスマン皇帝セリム1世に数名美女を贈り、セリムは返礼として二振りのダイアモンドが埋め込まれた剣と二隻のガレー船を送った。1516年にはクルトゥオウル・レイース(英語版)(後のオスマン海軍提督)が加わってエルバ島を攻め、12隻を拿捕、28隻に損害を与えた。
アルジェ時代

1516年、兄弟は、当時アルジェを支配していたスペイン人からアルジェを奪ったものの(アルジェ占領 (1516年)(英語版))、避難したスペイン人達はペニョンに篭り、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の支援を求めた。しかしアルジェを取り戻すことは出来なかった。アルジェの支配者としての支配を固めたウルージは、Miliana, Medea、ティンニス(英語版)など内陸部へと勢力を拡大した。1517年に兄弟は南イタリアのイーゾラ・ディ・カーポ・リッツート島やLimiti岬を襲撃した。ウルージは、スペインと対決するには、彼自身の故郷であり、スペインのライバルでもあるオスマン帝国と同盟することが最上策だと考え、アルジェの君主の立場を捨て、オスマン帝国にアルジェをサンジャク(県)として献上した。オスマン帝国のスルタンセリム1世はウルージをアルジェの知事、西地中海の海上州知事に任命し、イェニチェリ、ガレー船、大砲の支給を約束した。

1517年スペイン人はAbu Zayanをオラン、トレムセンの新しい支配者に任命し、ウルージに攻撃を仕掛けてきたが、逆にトレムセンは陥落し(トレムセン陥落 (1517年)(英語版))、Abu Zayanは処刑された。Abu Zayan王朝の生き残りSheikh Buhammudはオランに逃亡し、スペイン人の支援で現地を統治した。1518年皇帝カール5世はオランに到着し、Sheikh Buhammudとスペイン人市長Diego de Cordoba(マラガ近郊Comaresの伯爵)に出迎えられた。ディエゴは1万人のスペイン兵士を指揮し、地元の数千のベドウィンにも支援されていた。スペイン人達はトレムセンに向けて進軍しウルージとイスハークは1500のトルコ人と5千のムーア兵で迎撃した。戦いは20日に及んだが、Garcia de Tineo軍により殺された。

フズール(ハイレッディン)は、今やオスマン皇帝セリム1世からベイレルベイの称号を与えられ、イェニチェリ、ガレー船、大砲を持っていた。彼は兄の地位、渾名(バルバロッサ)、任務を継承した。1518年12月、オスマン帝国から援軍を得たハイレッディンはトレムセンを奪還した。引き続きイベリア半島のムスリムを北アフリカに運ぶ事業を続け、アンナバを占領した。1519年、アルジェ奪回に来たスペインとイタリアの連合軍を破った。1519年までに南仏のトゥーロンプロヴァンス、en:Iles d'Hyeresを略奪した。1521年にはバレアレス諸島や、新大陸から帰国してきた船団を襲撃し、1522年には配下のクルトゥオウル・レイースを指揮官とした船団をロドス島攻略へ派遣した。1525年6月サルディーニャ島を略奪。1526年5月南イタリアのクロトーネに上陸し船を沈め、アドリア海沿岸のマルシェ地方のカスティニャーノを略奪し、6月にはメッシーナに上陸し港を破壊し、遂にトスカーナ地方、カンパーニャ地方にまで姿を見せるようになった。1527年にもイタリアとスペイン沿岸の港と城を襲撃した。

1529年5月スペイン人の砦アルジェ要塞(スペイン語版、英語版)を陥落させ(アルジェ占領 (1529年))、8月にはスペインの地中海沿岸を攻め、7万人のムスリムが北アフリカへ脱出するのを支援した。10月、フォルメンテーラ島を攻め(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)(英語版))、スペイン船を駆逐。1530年1月にシチリアの海岸を攻め、3月と6月にはバレアレス諸島とマルセイユを略奪した。7月にはプロヴァンスとリグリア(コルシカ島北の海域)の海岸に現れてジェノヴァ船を拿捕した。10月にはピオンビーノ(トスカーナ地方の港湾都市)に現れ、ヴィアレッジ(トスカーナ地方の港湾都市)の帆船を拿捕し、3隻のフランスガレー船を拿捕、カラブリアの二隻以上の船を拿捕した。1530年12月にバレアレス諸島のカブレラの城を占領した。彼はこの島をこの地域の補給基地として使い始めた。
プレヴェザ海戦への道バルバロス・ハイレッディンが統治した地区の旗

1531年、カール5世に任命されたアンドレア・ドーリアがスペインとイタリアのガレー船40隻を率いてジジェルペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラを取り戻しに来た。バルバロッサは南イタリアのカラブリアとアプリアに出向いていたが、急遽アルジェに戻り、メッシーナ海峡でマルタ騎士団の船を沈め、翌年にはスペイン海岸を略奪し返した。1532年、スレイマン1世がオーストリアに遠征している間に、アンドレア・ドーリアは、ペロポネソス半島のレパント、Koroni、パトラモレアを占領した。スレイマンはYahya Pashazade Mehmed Beyの軍を派遣して再占領したが、この事件はスレイマンに、海防の重要性を認識させた。スレイマンはコンスタンティノープルにバルバロッサを呼び寄せることにし、バルバロッサは8月に出発した。彼は、サルディーニャ、コルシカ島のボニファシオモンテクリスト島エルバ島ランペドゥーザ島を略奪し、メッシーナ近郊では18のガレー船を拿捕した。捕虜から、アンドレア・ドーリアがプレヴェザに向かっていることを知ったバルバロッサは、カラブリア海岸を略奪しつつ、プレヴェザに向かった。短い戦闘の後ドーリア軍は退却し、バルバロッサが捕獲したのは7隻に過ぎなかった。彼は44隻を率いてプレヴェザに到着したが、25隻をアルジェに戻し、19隻を率いてコンスタンティノープルに向かった。トプカプ宮殿でスレイマン1世に面会し、オスマン海軍のKapudan-i Derya (カプタン・パシャ/大提督)、北アフリカのベイレルベイ(主知事)、ロドス諸島とエウボイア、キオス島のサンジャク(県知事)にも任命された。 1533年バルバロッサはフランス王への大使を派遣し、フランス王は返礼使としてAntonio Rinconを送ってきた。彼は最初にバルバロッサを訪問し、次いでスレイマンを訪問しに小アジアに向かった。この後もフランス宮廷とバルバロッサの間で使節が行き来した(Jean de La Foretなど)。

1534年バルバロッサは80隻のガレー船を率いて出撃し、レパントパトラモレアをスペイン人から取り戻した。カラブリア沿岸を略奪し、サン・ルーチドの城を占領、チェトラーロの港を破壊した。7月にはカプリ島を襲撃し、ナポリを砲撃した。ラツィオ地方(ローマ周辺地域)にも現れ、テッラチーナフォンディスペルロンガなど海岸沿いの町に上陸し、ティブル川河口のオスティアに上陸した時には、ローマで警鐘が鳴らされた。カール5世は刺客を送ったが失敗した。1534年にはチュニスも占領した(チュニス占領 (1534年)(英語版))。

1535年にチュニスのハフス朝君主ムーライ・ハサンは、カール5世の支援を仰ぎ、300隻のガレー船と2万4千の兵士で構成されるスペイン-イタリア連合軍とともにチュニスとアンナバマーディアを奪回した(チュニス占領 (1535年)(英語版))。大軍を前に、バルバロッサは敵軍が来る前に海に脱出、カプリに逃れ、要塞を修築。そこからアルジェに向かった。途中マヨルカ島やスペイン沿岸の町やマオーを襲撃し(マオー略奪(カタルーニャ語版、英語版))、スペインやジェノバの船を拿捕し、奴隷にされていたムスリムを解放、トレムソンで別働隊のスペイン軍を打ち破った。

1536年バルバロッサはコンスタンティノープルに呼ばれ、ナポリ攻撃用に200隻の戦艦を与えられた。1537年にはオトラント(イタリア半島のかかとの先の町)、ウジェントカストロ (レッチェ県)に上陸し占領した。1537年リュトフィ・パシャ(英語版)とバルバロッサは大艦隊を率いてヴェネツィア共和国に所属するイオニア諸島とエーゲ諸島を占領した。同年バルバロッサはコルフ島を襲撃し、諸島の農作物を焼き払い、周辺住民を奴隷として売り払った。しかし、コルフ島の古い城は、4000人のヴェネツィア兵士と700丁の銃で防ぎきった。いくつかの砦の襲撃に失敗した後、バルバロッサはカラブリアを再襲撃し、この一連の事件は、ヴェネツィアのに、教皇パウルス3世への“対オスマン神聖同盟”締結への直接の原因となった。
プレヴェザ海戦詳細は「プレヴェザの海戦」を参照

1538年2月教皇パウルス3世は教皇国、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国、マルタ騎士団から構成される神聖同盟の結成に成功した。しかしシナン・レイースに率いられたバルバロッサ軍は アンドレア・ドーリアに率いられた連合軍を9月、プレヴェザの海戦で撃破した。


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