バルドゥール・フォン・シーラッハ
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ドイツ国政治家バルドゥール・フォン・シーラッハBaldur von Schirach
 バルドゥール・フォン・シーラッハ(1942年9月14日
生年月日 (1907-05-09) 1907年5月9日
出生地 ドイツ
プロイセン王国 ベルリン
没年月日 (1974-08-08) 1974年8月8日(67歳没)
死没地 西ドイツ
ラインラント=プファルツ州クレフ
出身校ミュンヘン大学
所属政党 国民社会主義ドイツ労働者党
称号突撃隊大将[1]、陸軍予備役少尉、黄金ナチ党員バッジ[1]二級鉄十字章
配偶者ヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(旧姓ホフマン)
国民社会主義ドイツ労働者党
ウィーン帝国大管区指導者
在任期間1940年8月8日[2] - 1945年5月8日
党指導者アドルフ・ヒトラー
ドイツ国国会議員
当選回数3回
在任期間1932年7月31日 - 1945年5月8日
国民社会主義ドイツ労働者党
全国青少年指導者
在任期間1931年10月30日[3] - 1940年8月8日
党指導者アドルフ・ヒトラー
国民社会主義ドイツ労働者党
学生連盟指導者
在任期間1928年7月20日[4] - 1932年6月[5]
党指導者アドルフ・ヒトラー
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バルドゥール・フォン・シーラッハ
Baldur von Schirach
所属組織 突撃隊
ドイツ陸軍
軍歴1931年 - 1945年
1939年 - 1940年
最終階級 突撃隊大将
予備役陸軍少尉
除隊後戦争犯罪人としてニュルンベルク裁判において禁固20年の判決。
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バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach, 1907年5月9日 - 1974年8月8日)は、ドイツ国政治家陸軍軍人アメリカ系国民社会主義ドイツ労働者党全国青少年指導者。最終階級は予備役陸軍少尉、突撃隊大将

国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の全国青少年指導者、ヒトラーユーゲント指導者としてドイツの青少年を国民社会主義思想の下に指導、育成した。後にウィーンの総督兼帝国大管区指導者となり、ウィーンのユダヤ人の追放に関与した。戦後ニュルンベルク裁判の被告人の一人となり、ユダヤ人追放の廉で人道に対する罪で有罪となり、禁固20年の刑に処せられた。
生涯
生い立ちシーラッハの先祖の一人であるアメリカ独立宣言調印者ヘンリー・ミドルトン(1717-1784)

1907年5月9日に帝政ドイツ領邦プロイセン王国首都ベルリンに生まれる。父はアメリカ系ドイツ人でプロイセン近衛胸甲騎兵連隊将校カール・フォン・シーラッハ(英語版)。母はアメリカ人のエマ・ミドルトン(Emma Middleton)[6]

シーラッハは、ナチ党幹部には珍しく、裕福な貴族の出であった。父カールのシーラッハ家はオーストリア女王マリア・テレジアの時代に文芸分野の功績で貴族の称号を賜った家柄であった[7]。母エマはアメリカ・フィラデルフィア出身で、シーラッハ家以上に裕福な家の女性だった[6][7]。母の祖先にはアメリカ独立宣言に調印した先祖が二人いる[8]。母エマはシーラッハ家に嫁いだ後もドイツ語を話したがらず、英語で通した[9]。アメリカ人の血を引く父カールも英語が話せたので、シーラッハ家の日常会話は英語だった。シーラッハ家の五人の子供も英語で育てられた。そのためシーラッハはドイツ語以上に英語が堪能だった[7]

父は1908年に軍を退役し、ヴァイマルの宮廷劇場の支配人に任じられた。そのためシーラッハ一家はヴァイマルへ引っ越した[8][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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