バルト諸国占領(バルトしょこくせんりょう)とは、エストニア、ラトビアおよびリトアニアが、初めは1939年のドイツ国とソ連が締結したモロトフ・リッベントロップ条約の条項に基づきソ連によって、続いて1941年から1944年まではドイツによって、さらに1944年から1991年までは再びソ連によって行われた占領のことである[1][2][3][4][5][6]。 1939年9月、第二次世界大戦が開始された時にはバルト三国の運命は1939年8月の独ソ不可侵条約とその秘密議定書によって既に定まっていた[7]。 バルト三国の第二次世界大戦時の被害はヨーロッパにおける最大のものの1つである。人口の損失はエストニアの25%、ラトビアの30%、リトアニアの15%と見積もられている。戦争と占領において死亡した犠牲者数はエストニアで9万人、ラトビアで18万人およびリトアニアの25万人と推定される。これには1941年のソビエトによる追放、ドイツによる追放、およびホロコーストの犠牲者を含んでいる[8]。 ペレストロイカ期の1989年に始まったソビエト史の再評価で、ソ連は自国とドイツとの間で結ばれた1939年の秘密議定書がバルト三国への侵攻と占領を導いたとして自己批判している[9]。 バルト三国の独立を求めた闘争は1991年に結実し、各国の独立が回復してソ連から離脱した後は、その半年後のソ連の最終的な分裂を加速した。ロシア軍は、1993年8月にバルト三国からの撤退を開始した(初めはリトアニアから)。最後のロシア軍部隊は1994年8月にバルト諸国から撤退している[10]。ロシア政府は1998年8月まで、スクルンダ-1 以前はロシア帝国の領土であったバルト海のフィンランド、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの4カ国は第一次世界大戦後、エストニア、ラトビアおよびリトアニアの独立戦争を経て1920年までに各国の国境を確定した(参照:タルトゥ条約、ラトビア・ソビエト・リガ平和条約、ソビエト・リトアニア平和条約
概要
1939年までの歴史
ソビエトによる1939年の最後通告
独ソ不可侵条約独ソ不可侵条約と後の修正に基づくヨーロッパ分割の計画と実際詳細は「独ソ不可侵条約」を参照
1939年8月24日早朝、ソビエト連邦とドイツは期間10年の独ソ不可侵条約に調印した。この条約には1945年のドイツ敗戦後になってから初めて明かされる秘密議定書が含まれていた。その条項によるとヨーロッパの北部と東部の国々がドイツとソビエトの「勢力圏」に分割されていた[15]。北部ではフィンランド、エストニア、およびラトビアはソビエトの勢力圏に割り当てられていた[15]。ポーランドについてはナレフ川、ヴィスワ川、サン川の東側地域はソビエト、西側地域はドイツが占領することになっていた[15]。東プロイセンに隣接するリトアニアは当初ドイツの勢力圏となる予定だったが、1939年9月に合意された次の秘密議定書(ドイツ・ソビエト境界友好条約)ではリトアニアの大部分はソ連に割り当てられた[16][17]。秘密条項により、リトアニアは戦間期にはポーランドに支配されていた、かつての首都ヴィリニュスを取り戻した。
第二次世界大戦の開始ポーランド侵攻終了、ドイツとソビエトの将校が握手
1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻(第二次世界大戦始まり)
1939年9月3日、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドがドイツに対して宣戦布告(まやかし戦争)
1939年9月4日、フランス・ポーランド軍事同盟更新
1939年9月10日、カナダがドイツに対して宣戦布告
1939年9月14日、ポーランド潜水艦オジェウがエストニアのタリンに入港
1939年9月17日、ソ連がポーランド侵攻。イギリス、フランスは宣戦布告せず
1939年9月18日、オジェウ事件が起こる: ポーランド潜水艦オジェウがタリンにおける拘束状態から脱出し、最終的にイギリスに向かう。このことからソ連とドイツがエストニアの中立性を疑う。
エストニア、ラトビア、リトアニアへの最後通告タリンの潜水艦オジェウ記念碑
1939年9月24日、赤軍の海軍軍艦がエストニアの港沖に現れ、ソ連軍爆撃機がタリンとその近郊上空で威嚇飛行を始めた[18]。9月25日、ソ連はバルト三国全ての空域に入り、大規模な情報収集活動を実施。ソ連政府はバルト三国がその領土にソ連の軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求した[19]。
1939年9月28日、エストニア政府は最後通告を受諾し、関連する協定に調印した。10月5日にラトビアが続き、リトアニアは10月10日に調印した。その協定はヨーロッパの戦争の期間、ソ連がバルト三国の領土にソ連の軍事基地を建設すること[19]と1939年10月からエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の赤軍駐留を認めるものだった。詳細は「ソビエト・エストニア相互援助条約(ロシア語版)」、「ソビエト・ラトビア相互援助条約(ロシア語版)」、および「ソビエト・リトアニア相互援助条約(英語版)」を参照
1939年前半、レニングラード軍管区は既にバルト三国に向けて赤軍の約10%に当る17師団の配備を終えていた。間もなく動員が行われた。1939年9月14日、第8軍がプスコフに派遣され、動員された第7軍はレニングラード軍管区の指揮下に入った。侵攻準備はここまでに完成に近づいていた。9月26日、レニングラード軍管区には「エストニア・ラトビア国境へ部隊の集中の開始と9月29日の作戦終了」が命じられる。その命令では「攻撃開始の時刻については別の命令が発せられる」ことと伝えられる[20]。1939年10月初めまでにソビエトはエストニア・ラトビア国境に全部で以下のような準備を終えていた。
兵力 437,325
砲撃火器 3,635
戦車 3,052
装甲車 421
車両 21,919[21]
フィンランド侵攻詳細は「冬戦争」を参照
ソ連はフィンランドにも同様の協定への調印を要求したがフィンランドは拒否し[22]、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに侵攻し、冬戦争が勃発した。この侵攻は国際連盟によって違法なものと判断され、12月14日にソ連を国際連盟から除名する[23]。この戦争は1940年3月13日に終り、フィンランドとソ連はモスクワ平和条約に調印した。フィンランドは首都ヘルシンキに次ぐ第2の都市ヴィープリを含む産業の中心部も併せてカレリアのほとんど全て(全部で領土の10%近く)を譲渡することを強制された。軍隊と残っていた住民は、新しい国境の内側に急いで避難している。フィンランドの全人口の12%に相当した42万2千人のカレリア住民が家を失った。フィンランドはバレンツ海のルイバチー半島(英語:Rybachy Peninsula、フィンランド語:Kalastajasaarento)のフィンランドの領域であったサッラ (Salla) の一部に加えてフィンランド湾のスールサーリなど4つの島[24]も譲渡しなくてはならなかった。最終的にハンコ半島は30年間海軍基地としてソ連に貸与された。1941年6月、フィンランドとソ連は継続戦争で交戦を再開する。
ソビエトによる侵略と占領(1940年 - 1941年)
ソビエトによる侵略1940年の赤軍によるエストニアとラトビアの封鎖と侵略の概略図(海軍部ロシア国立公文書館)
バルト三国に対してあり得る軍事行動のため配置された赤軍部隊には43万5千人の兵員、約8千の大砲と迫撃砲、3千台以上の戦車、500台以上の装甲車があった[25]。
1940年6月3日、バルト三国を拠点とする全ての赤軍はアレクサンドル・ロクティオノフ (Aleksandr Loktionov) の指揮下に統合されていた[26]。
6月9日、命令02622ss/ovがセミョーン・チモシェンコにより赤軍のレニングラード軍管区に出され、6月12日までに準備されることとして次のことが求められた。a) エストニア、ラトビアおよびリトアニア海軍の船舶の基地と海上のいずれかあるいは両方における捕捉、b) エストニアとラトビアの商船艦隊と他の船舶の捕捉、c) タリンとパルティスキへの侵攻と上陸に対する準備、d) リガ湾閉鎖とフィンランド湾とバルト海のエストニアとラトビアの沿岸の封鎖、e) エストニアとラトビアの政府、軍隊および資産の避難の阻止、f) ラクヴェレへの侵攻に対する海軍による支援の手配、g) エストニアとラトビアの航空機のフィンランドあるいはスウェーデンへの飛行の阻止[27]
1940年6月12日、エストニアの完全な軍事封鎖の命令がソビエトのバルチック艦隊に出される(海軍部ロシア国立公文書館の責任者である歴史学者パーヴェル・ペトロフ (Pavel Petrov) 博士による文書記録の参照より[28][29])。
6月13日午前10時40分、赤軍が決められた位置に移動を開始、6月14日午後10時までに終了している。
a) 4隻の潜水艦と海軍の何隻かの小型艦艇がバルト海で所定の位置に着いた。
b) 駆逐艦隊3を含む小艦隊が侵攻を支援する為ナイッサール島の西に位置した。
c) 第一海兵旅団の4大隊が乗船した輸送船「シビル」 (Sibir)、「第二ピャティレトカ」 (2nd Pjatiletka) および「エルトン」 (Elton) はナイッサール島とアエグナ島への上陸と侵攻のための位置に着いた。
d) 輸送船「ドニエステル」 (Dnester) と駆逐艦「ストロゼヴォイ」 (Storozevoi) と「シルノイ」 (Silnoi) は首都タリン侵攻のため数個の部隊を乗艦させて位置に着いた。
e) 第50大隊はクンダ (Kunda) 近くに侵攻するための艦艇の中に位置した。海軍封鎖には全部でソビエト船舶が120隻参加している。それには1隻の巡洋艦、7隻の駆逐艦、17隻の潜水艦が含まれていた。参加した航空機は219機であり、これにはイリユーシンDB-3 (DB-3) 型とツポレフSB型の両爆撃機計84機を持った第8航空旅団と62機の航空機を持った第10旅団が含まれていた[30]。
1940年6月14日、世界の注目がナチス・ドイツによるパリ陥落に集中している間にソビエトによるエストニアの軍事封鎖が実施された。タリン、リガ、ヘルシンキに置かれたアメリカ公使館からの3つの外交文書の包みを運んでいたタリン発ヘルシンキ行のフィンランド旅客機「カレヴァ (Kaleva)」は2機のソ連爆撃機に撃墜されている。アメリカの外務部事務員ヘンリー・W・アンタイル・ジュニア (Henry W. Antheil, Jr.) はその墜落によって死亡した[31]。
6月15日、赤軍はリトアニアに侵攻し[32]、マスレンキ (Mas?enki) でラトビア国境守備隊を攻撃する[33][34]。
1940年6月16日、赤軍は相互援助条約に基づきエストニアとラトビアに進駐を開始。両国内の自由通過権と新政府組織の設立を要求[32][35]。進駐時に出版されたタイム誌の記事によると、ほんの数日の間に約50万人の赤軍部隊がバルト三国を占領し、それはナチス・ドイツにフランスが降伏するちょうど1週間前のことである[36]。
モロトフはバルト三国のソ連に対する陰謀を非難し、ソビエトが承認する政府の設立を求める最後通告をバルト三国に渡した。