バルトールス・デ・サクソフェラート
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バルトールス・デ・サクソフェラート
人物情報
生誕1313年
死没1357年7月13日
国籍神聖ローマ帝国
出身校ボローニャ大学ピサ大学、ペルージャ大学
両親父 フランシスカス・セヴェリ
母 アルファニ家
学問
時代カール4世
活動地域イタリア
学派後期註釈学派
研究分野民法国際私法
主な指導学生バルドゥス・デー・ウバルディス
学位法学博士
特筆すべき概念紋章商標水利権
影響を受けた人物

Cino da Pistoia

Oldradus de Ponte

Jacobus de Belviso

Jacobus Buttigrarius
Rainerius de Arisendis

影響を与えた人物

Alberico Gentili

Richard Zouch

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バルトールス・デ・サクソフェラート(ラテン語: Bartolus de Saxoferrato、1313年 - 1357年7月13日)は、14世紀イタリアの中世ローマ法(英語版)及び大陸法の権威であった法学者ボローニャ大学ピサ大学ペルージャ大学の法学教授フランチェスコ会士。バルトルス・デ・サッソフェラト、バルトロ・ダ・サッソフェラートとも。

スコラ哲学演繹法を使って法を体系化することにより、実用性に難点の多かった註釈学派に替えて後期註釈学派を発展させ、「バルトールスの徒にあらざる者は法律家にあらず」と言われた。
生涯

1313年、イタリアのマルケ州サッソフェッラートに近いヴェナチュラ村の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}富裕な農家に[要出典]生まれる。父はフランシスカス・セヴェリ、母はアルファニの家系。ペルージャ大学入学後、チーノ・ダ・ピストイア(英語版)の下で民法を修め、ボローニャ大学ではオルドラドゥス・デ・ポンテ(英語版)とヤコブス・デ・ベルビーゾ(英語版)に師事。1334年、21歳の若さで法学博士になる。その後イタリア各地で実務家として活動[要出典]、1339年ピサ大学で初めて教鞭をとり、 1343年にはペルージャ大学教授に就任。

ペルージャの法学校をボローニャ市の基準まで引き上げた功績により、1348年には同市から名誉市民の称号を受けた。1355年には神聖ローマ皇帝カール4世から法制顧問に指名。

ペルージャにおいてはバルドゥス・デー・ウバルディス、また兄弟のアンゲリウスとペトルスがその弟子であった。43歳のときペルージャで急逝し、聖フランチェスコの教会に埋葬された[1]

バルトールスは短い生涯であったにも拘らず、稀有なほど多くの著作を残している。彼はローマ法大全のうちユスティアヌス法典(英語版)以外の全項目の解説を書き、また、水利権に関する著名な論文『De fluminibus seu Tyberiadis』など多くの各論の論文を著述した。裁判所や民間団体から法的見解を求められて作成した意見書は400件近くに上る。

バルトールスが発達させた成文法は、のちに民法の慣例の一部となっていった。また14世紀のイタリアでは各都市にそれぞれの法律と慣例があり地域を跨る紛争を解決しうる法の必要性が高かったことから、最も重要であると見做されている彼の業績は、紛争解決に関する法分野を発達させたことである。論文『De insigniis et armis』では紋章法(英語版)のみでなく商標法といった新たな概念も論じた。

また地方自治やイタリアの党派、小貴族政権の合法性といった政治的課題に関する著述もした。その政治的思想は当時の政治的環境のバランスをとり、地方政治の合法性を確保したうえで神聖ローマ帝国の立場を尊重するというものであった。
逸話

バルトールスは生前から既に著名であったが、
ローマ法が発達したルネサンス期には再度、権威ある法学者として見做されるようになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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