バルトロメ・デ・ラス・カサス
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バルトロメ・デ・ラス・カサス
ドミニコ会司祭
ラス・カサス
教会カトリック教会
教区メキシコ チアパス
個人情報
出生1484年8月24日
カスティーリャ王国
アンダルシア州
セビーリャ
死去 (1566-07-17) 1566年7月17日(81歳没)
スペイン帝国
マドリード
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バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolome de las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)は、16世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた[1]。主著に『インディアス史』、『インディアス文明誌』などがあり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でも有名。生前から激しい批判を受け、死後も相反する評価を受けることが多かった。「インディオの保護者(スペイン語版)」などとも呼ばれる。
生涯
生い立ち

ラス・カサスはスペイン、アンダルシア地方セビリアに生まれた。父ペドロ・デ・ラス・カサス、母イサベル・デ・リサの間にはじめての男の子として生まれ、三人の妹がいた。一族はコンベルソ(改宗ユダヤ人)の出身であるという説もあるが、定かではない。1493年、「新大陸」に到達してスペインに戻ってきたクリストファー・コロンブス(クリストーバル・コロン)のセビリア到着を目撃、強い印象を受けた。さらに父ペドロが兄弟とともにコロンブス(以下コロン)の第二次航海に参加し、「新大陸」に渡った。当時「新大陸」はインド(広義のインディア)であると考えられていたため、同地はスペイン人によって「インディアス」とよばれることになった。

1502年にはラス・カサス自らもインディアスに渡ることになり、新総督に任命されたニコラス・デ・オバンドと共にエスパニョーラ島へ渡航、同地に滞在した。一帯はコロンブスの率いるスペイン軍による略奪と虐殺から始まる、アラワク族ルカヤン族タイノ族などのインディオ部族とスペイン人入植者との激しい戦いのなかにあった。1504年3月にはイグエイ(Higuey)地方のインディオの「反乱」鎮圧軍に加わっている。イグエイから戻ったラス・カサスはコンセプシオン・デ・ラ・ベガの近くでインディアンを奴隷として所有使役しながら、農場を経営した。

1506年、セビリアに戻ったラス・カサスは司祭職を志して下級叙階を受けた。1507年にはクリストーバル・コロンの息子ディエゴ・コロンのインディアスにおける特権回復の陳情のためローマへ赴き、そこで司祭に叙階された。ディエゴの陳情活動は成功し、ディエゴはインディアス総督の任命をうけることができた。ディエゴとラス・カサスは1510年にインディアスに戻り、ラス・カサスは同地で初ミサをささげた。

1511年12月、ラス・カサスの運命を変えた最初の出来事が起こる。サント・ドミンゴで生活していたドミニコ会員アントニオ・デ・モンテシーノスが、スペイン人のインディオに対する不当な扱いを初めて非難したのである。この運動はやがてスペイン王室も動かし、フェルナンド2世のもとにインディアス政策を検討するブルゴス会議が開かれ、ブルゴス法を制定した。
第一の改心

1512年、ディエゴ・コロンはキューバ島征服軍を出動させ、ディエゴの友人であったラス・カサスも従軍司祭としてこれに加わった。軍勢の中には後にコンキスタドールとして知られたエルナン・コルテスもいた。この軍事行動の中でおこなわれたインディアンに対する拷問と虐殺を目の当たりにしたラス・カサスは激しい良心の呵責を感じるようになった。1514年には従軍司祭の地位を捨て、農業に専念しながら聖書について観想する生活に入る。聖書のメッセージと現実に起こっているインディオの不当な扱いは明らかに相容れないものであった。司祭としてラス・カサスの苦悩は頂点に達していた。

1514年8月15日、ラス・カサスの人生における「第一の改心」と呼ばれる出来事が起こる。ラス・カサスは熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らのエンコミエンダを放棄。サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中でエンコミエンダ制の矛盾を厳しく糾弾したのである。

1515年、インディアスでエンコミエンダ制の不当性を訴えていたドミニコ会員たちと相談の上、王室に状況の改善を訴えようとモンテシーノスと共にスペインへ向かった。しかし、フェルナンド2世はまもなく逝去したため、摂政として実権を握っていたフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿およびアドリアン枢機卿(後のハドリアヌス6世)に謁見して植民地の実情を訴えた。この時書かれたのが『14の改善策』といわれるもので、エンコミエンダの廃止とインディオ虐待の即時中止、平和的キリスト教布教などが提案されている。インディオは奴隷酷使され、また虐殺によって数を減らし、南米へ逃亡するものが後を絶たず、奴隷労働力としてすでに役に立たなくなっていた。このため、このころのラス・カサスはインディオに代わる労働力として西アフリカから運ばれた黒人奴隷の利用もやむなしと考えていた。しかし後に、これも不当であると考えるようになる。
第二の改心

ラス・カサスの提案により、シスネロス枢機卿の指示でインディアス審議会が発足。インディアスへの調査団の派遣を決定した。調査団はヒエロニムス会の修道士たちによって構成されており、ラス・カサスはインディオ保護官という肩書きで現地に同行した。調査団は忠実に職務を遂行したが、ラス・カサスから見れば手ぬるいものであったため、まもなく両者は対立することになった。調査団とラス・カサスがスペインに戻ると、死期が近づいていたシスネロス枢機卿はすでに権勢を失っており、まもなく死去した。しかたなくラス・カサスは新王カルロス1世(カール5世)に謁見することにし、謁見許可を待つ間、ドミニコ会神学院において法学・神学の知識を深めた。やがて王の側近ジャン・ル・ソヴァージュの知遇を得ると、王から暴力的行動を禁止し、平和的植民のみを許可する勅令を得ることができた。これを実践しようとしたラス・カサスは自ら植民団をひきいてクマナー地方で平和的植民活動を行ったが、うまくいかず植民者たちはラス・カサスのもとを去った。インディアスのスペイン人たちの間でラス・カサスへの反感が強まり、命の危険を感じたラス・カサスは、ドミニコ会員たちのすすめに従ってドミニコ会に入会、修道院にかくまわれる形で研究に専念した。これが「第二の改心」である。研究活動の中で、当時の著名な神学者カジェタヌス枢機卿が「征服戦争の正当性を立証する神学的根拠は何もない」という意見を持っていることを知り、大いに励まされた。『布教論』とよばれる著作はこのころ書かれたが、現在では一部分しかのこっていない。

1526年9月、インディアス事情に精通しているということで、ラス・カサスはエスパニョーラ島に新しく出来たドミニコ会修道院の院長任命を受けた。このころ、『インディアス史』の執筆を始めているが、2年前の1524年にはすでにインディアス評議会は枢機会議に格上げされており、王の直属機関となっていた。これは当時スペイン国内でインディアスの扱いについての関心が高まっていたこと、植民者たちの目にあまる行為とインディオへの虐待を問題視する意見が強かったことを示している。ラス・カサスはしきりに枢機会議に書簡を送っては現状を報告していた。その後はインディアス各地ですすめられたインディオ征服を批判しながら、インディオへの平和的布教に取り組んだ。


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