バルセロナ家
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バルセロナ家(カタルーニャ語: Casal de Barcelona、イタリア語: Casa di Barcellona、カスティーリャ語: Casa de Barcelona)は、アラゴン王国およびカタルーニャの君主の家系として中世に興った南ヨーロッパの王家。アラゴン家(カタルーニャ語: Casal d'Arago、イタリア語: Casa d'Aragona、アラゴン語: Casa d'Aragon、カスティーリャ語: Casa de Aragon)とも呼ばれるが、この呼称は後継王朝となったアラゴン系トラスタマラ家や、ナポリ王国の王家となったその分枝にも用いられる場合がある。12世紀から15世紀初めまでの間にこの家系の支配が及んだ地域は、現在のスペイン東部、フランス南部、イタリア南部にまたがる。
概要

バルセロナ家の前身は、9世紀終わりのギフレ1世多毛伯(英語版)(生没年:? - 897年)以降、バルセロナ伯世襲化したスニフレ家である。バルセロナ伯は次第に周辺の伯領を併合してカタルーニャ君主国を形成し、ラングドックまで支配を広げた。

アラゴン王家としてのバルセロナ家は、ヒメネス家アラゴン王ラミーロ2世(1075年頃 - 1154年)が、幼い一人娘ペトロニラ女王(1135年 - 1174年)の夫としてギフレ1世の子孫であるバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(1113年頃 - 1162年)を迎え、アラゴンの統治を託したことに始まる。ラモン・バランゲー4世自身はアラゴン王を称することがなかったが、ペトロニラとの間の長男アルフォンソ2世(1157年 - 1196年)以降はアラゴン王とバルセロナ伯の称号を共に称し、アラゴン=カタルーニャ連合王国(アラゴン連合王国)とも呼ばれる同君連合国家が成立する。また、ラモン・バランゲー4世の弟バランゲー・ラモン(1115年 - 1144年)の家系はプロヴァンス伯を世襲していたが、その男系男子が絶えるとアルフォンソ2世が獲得し、自らの弟、次いで次男アルフォンソ(アルフォンス2世、1174年 - 1209年)に与えた。

アルフォンソ2世の孫で征服王と呼ばれるハイメ1世(1208年 - 1276年)は、母マリアからモンペリエを相続し、またバレアレス諸島バレンシアを征服した。ハイメ1世はイベリア半島の領土をペドロ3世(1239年 - 1285年)に、マヨルカ王国(バレアレス諸島および北カタルーニャ)とモンペリエはペドロの弟ハイメ(ジャウマ2世、1243年 - 1311年)に分け与えた。マヨルカ王国は4代にわたってアラゴン王家から独立して続いたが、アルフォンソ4世(1299年 - 1336年)によってアラゴンに再併合された。

ペドロ3世は一方、シチリアの晩祷事件(1282年)を契機とするシチリア王国の内乱に介入し(シチリア晩祷戦争)、シチリア王カルロ1世(アルフォンス2世の孫ベアトリスと結婚し、1246年にプロヴァンス伯を継承していた)の軍を破ってシチリア島側の領土を獲得し、1282年にシチリア王位についた。カルロ1世はイタリア半島南部の領土のみを確保し、これはナポリ王国と呼ばれることになる。アラゴンとシチリアの王位はペドロ3世の息子たちの間で分割され、最終的に次男ハイメ2世(1267年 - 1327年)の家系がアラゴン王家、三男フェデリーコ2世(1272年 - 1337年)の家系がシチリア王家となって続いた。

シチリア王家はフェデリーコ3世(1342年 - 1377年)を最後に男系男子が絶え、その娘マリア女王(1362年頃 - 1402年)と結婚したアラゴン王子マルティン(1374年頃 - 1409年)がマルティーノ1世として、妻の死後もシチリアを治めた。


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