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アラゴン王冠領の拡大。赤色がバルセロナ伯領
公用語オクシタニー・カタロニア語(古プロヴァンス語・古カタロニア語)、ラテン語
宗教カルケドン派
(1054年ごろの大シスマ以降はカトリック教会)
首都バルセロナ
バルセロナ伯
801年 - 820年ベラ
1131年 - 1162年ラモン・バランゲー4世
変遷
成立801年
解体1162年
現在
フランス
スペイン
カタルーニャ州
バルセロナ伯領(バルセロナはくりょう、ラテン語: Comitatus Barcinonensis、カタルーニャ語: Comtat de Barcelona)は、カロリング帝国がイスラーム圏に対する前線地域としてピレネー山脈東部に設置した伯領である。10世紀になるとバルセロナ伯は徐々に独立した世襲君主となり、継続的に後ウマイヤ朝やその後継諸政権と戦った。さらに婚姻や同盟、条約を通して他のカタルーニャ諸伯領を統合していき、オクシタニアにまでその勢力を広げた。1164年にバルセロナ伯領はアラゴン王国と同君連合となり、以降の歴史はアラゴン王冠のもとでの歴史を歩むことになるが、首都バルセロナは卓越した地位を保ち続けた。この頃のバルセロナ伯領の政治体制は、他のカタルーニャ諸伯領と合わせてカタルーニャ君主国とも呼ばれる。 8世紀初頭、ムスリムのウマイヤ朝がヒスパニア北部の西ゴート王国領(現スペイン北東部・フランス南部)を征服した。ムスリムはさらにガリアの奥深くまで侵攻したが、これをフランク王国が撃退し、ゴート・ヒスパニア辺境領を設置していった。8世紀中にムーア人が征服していたセプティマニアも奪い返したフランク王国は、イベリア半島北東部のピレネー山脈域を制圧し、ゴート辺境領からの移民で住民構成を塗り替えた。 この結果、イベリア半島のムスリム勢力とガリアのアクィタニア公国・プロヴァンスの間に緩衝地帯が生まれた[1]。 フランク王国は785年にジローナを征服し、さらに801年にはアクィタニア公ルートヴィヒ(後の皇帝ルートヴィヒ1世)がバルセロナを征服し、フランク王国に併合した。ここに、フランク王に従属するバルセロナ伯領が生まれた。初代バルセロナ伯は西ゴート人のベラ 当初、伯領の権威は地元貴族に基づいていた。しかしベラはアンダルスのムスリムとの平和を維持しようとした[3]ため、王に対する反逆罪に問われた。西ゴート法に基づいて決闘が行われ、敗れたベラは廃位され追放された。その後、バルセロナ伯はランポー カタルーニャ諸伯領とフランク王権の関係は、疎遠化の一途をたどった。伯たちは世襲の権利を要求し、自立の傾向を強めた。また諸伯領は互いに統合して、より強力な勢力を形成しようとする動きも見せるようになった。その指揮をとったのが、スニフレ1世の息子ギフレー1世
成立
フランク王国・カロリング帝国時代
自立と統合