バルカンの歴史では、南東ヨーロッパのバルカン地域の歴史の年表をしめす。
伝統的にバルカンとみなされる地域は、現在の国家で表せば以下のとおり。
ギリシャ
アルバニア
クロアチア
コソボ
セルビア
トルコ(一部)
ブルガリア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
北マケドニア
モンテネグロ
過去に領土を持った主要な国
東ローマ帝国
ヴェネツィア
オスマン帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
ユーゴスラビア
先史時代
イリュリア
トラキア
ダキア
マケドニア
モエシア
古代
ギリシャ人
ゴート人
マケドニア王国
4世紀 - ゲルマン民族の大移動
376年 - 西ゴート王国、ダキア、ローマ帝国に侵入
395年 - ローマ帝国が東西に分裂(東ローマ帝国)
476年 - 西ローマ帝国消滅
5世紀頃 - ローマ人が外敵から逃れてヴェネト地方の干潟へ移住(ヴェネツィアの起源)
585年頃 - スラヴ人南下
6世紀 - ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)
旧西ローマ帝国領のイタリア・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再びローマ帝国領にすることに成功
ローマ法の集大成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建
その後サーサーン朝ペルシア帝国との抗争やアヴァール人・スラヴ人・ランゴバルト人などの侵入
7世紀になるとサーサーン朝ペルシア帝国にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われる
中世
皇帝ヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)
シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシア帝国との戦いに勝利して、領土を奪回することに成功
しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けてシリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失う
7世紀初め頃 - セルビア人がバルカン西部に南下
7世紀 - 東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わる
7世紀後半 - ドナウ・ブルガール人、ドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入
655年 - 東ローマ、小アジア南岸のリュキア沖の海戦で敗れる。以後、東地中海の制海権を失う
674年-678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲される
第一次ブルガリア帝国(681年 - 1014年) トルコ系の遊牧民ブルガール人が建国。後にキリスト教国となる
697年 - ヴェネツィア、初代元首が選出される
717年 - イサウリア王朝の皇帝レオーン3世即位
718年 - 東ローマ、コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退
726年 - レオーン3世、聖像破壊運動を開始
東ローマ皇帝はローマ教皇と対立しカトリック教会との乖離を深める
787年 - 第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着
両教会の教義上の差異はフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化し、「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分離
8世紀 - ブルガリアが東ローマ帝国と激しく争う
800年 - ローマ教皇がフランク王カールを「ローマ皇帝」として戴冠(カール大帝)、政治的にもかつての東西ローマ帝国は対立、古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分される
810年 - ヴェネツィア、フランク王国を撃退
811年 - ブルガリア、東ローマ皇帝ニケフォロス1世の親征を受けるがこれを打ち破り、813年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲するに至る
9世紀 - ルーシとのルーシ・ビザンツ戦争(?11世紀)
860年 - 北方よりヴァリャーグ(ヴァイキング)、コンスタンティノポリス襲撃。嵐のため壊滅
864年 - ブルガリア皇帝、キリスト教に改宗
867年-1057年 - バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝時代 - 東ローマ帝国の最盛期
東欧地域へのキリスト教の布教
軍事力の回復によるバルカン半島および小アジア・東方の領土奪回