バリー・ラーキン
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バリー・ラーキン
Barry Larkin
野球ブラジル代表
2013年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地オハイオ州シンシナティ
生年月日 (1964-04-28) 1964年4月28日(56歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1985年 MLBドラフト1巡目
初出場1986年8月13日
最終出場2004年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


モーラー高等学校(英語版)

ミシガン大学

シンシナティ・レッズ (1986 - 2004)

国際大会
代表チーム アメリカ合衆国
五輪1984年
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2012年
得票率86%
選出方法BBWAA[:en]選出
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オリンピック
男子 野球
アメリカ合衆国
オリンピック
1984野球

バリー・ルイス・ラーキン(Barry Louis Larkin, 1964年4月28日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身の元プロ野球選手遊撃手)。右投右打。

9歳下の実弟スティーブン・ラーキン(英語版)も元メジャーリーガー。息子のシェーン・ラーキンはバスケットボール選手。目次

1 経歴

1.1 プロ入り前

1.2 プロ入りとレッズ時代

1.3 引退後


2 選手としての特徴

3 人物

4 詳細情報

4.1 年度別打撃成績

4.2 表彰

4.3 記録

4.4 背番号

4.5 代表歴

4.6 代表でのコーチ歴

4.7 代表での監督歴


5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

経歴
プロ入り前

子供の頃は地元シンシナティ・レッズの遊撃手であるデーブ・コンセプシオンが憧れの選手だった。1982年MLBドラフト2巡目(全体51位)でレッズから指名を受けるが契約せず、ミシガン大学へ進学。1984年には第13回日米大学野球選手権に出場[1]、さらにロサンゼルスオリンピックアメリカ代表として出場し銀メダルを獲得した。
プロ入りとレッズ時代

1985年MLBドラフト1巡目(全体4位)で再びレッズから指名され、プロ入り。

1986年はAAA級デンバー・ゼファーズで打率.329・10本塁打・10三塁打を記録し[2]8月13日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー[3]。憧れだったコンセプシオンを押しのけてショートのレギュラーに定着し、8月17日サンディエゴ・パドレス戦でラマー・ホイトからメジャー初本塁打を放つ[4]など打率.283・3本塁打の成績。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では1ポイントを獲得した[5]

1988年11月には日米野球グレッグ・マダックスラファエル・パルメイロらと共に来日。打率.476を記録しMVPに選ばれている。

1990年にはチームの中心選手としてワールドシリーズ制覇に貢献。

1995年には打率.319、15本塁打、66打点の成績だったが、本塁打・打点の2冠王ダンテ・ビシェットを抑えてナショナルリーグMVPを受賞。成績以上にチームリーダーとしての役割が評価されての受賞だった。

1996年には33本塁打・36盗塁を記録し、遊撃手としては史上初の「30・30」を達成した。さらに彼はヒスパニックのチームメイトと関係を構築するためにスペイン語を学んだ。

1997年、チームではコンセプシオン以来となるキャプテンに就任。

1998年、シーズン最終戦の9月27日に弟のスティーブン・ラーキン(英語版)が1試合だけ一塁手で出場し、兄弟同時出場が実現した。この試合で、当時レッズに所属していたブレット・ブーンアーロン・ブーン兄弟もそれぞれ二塁手三塁手で出場し、史上初の兄弟2組同時出場が実現した。

2000年8月21日ピート・ローズ、コンセプシオン、ジョニー・ベンチに次いで球団史上4人目の通算2000本安打を達成。

2004年10月2日引退式が予定されていたが、まだ引退の意思が無かったため辞退した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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