バリー・ボンズ
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バリー・ボンズ
Barry Bonds
2006年5月8日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州リバーサイド
生年月日 (1964-07-24) 1964年7月24日(59歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
240 lb =約108.9 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1985年 MLBドラフト1巡目(全体6位)でピッツバーグ・パイレーツから指名
初出場1986年5月30日
最終出場2007年9月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


フニペロ・セラ高等学校(英語版)

アリゾナ州立大学

ピッツバーグ・パイレーツ (1986 - 1992)

サンフランシスコ・ジャイアンツ (1993 - 2007)

コーチ歴


マイアミ・マーリンズ (2016)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

バリー・ラマー・ボンズ(Barry Lamar Bonds、1964年7月24日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州リバーサイド出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)・コーチ
概要

MLB歴代1位記録となる通算762本塁打、シーズン73本塁打長打率.863、出塁率.609、OPS1.422、史上唯一の500本塁打500盗塁など、そのキャリアを通じて数々の記録を残し、史上最も偉大な野球選手の一人とされる[1][2]

栄養補助食品会社バルコ(BALCO)の薬物醜聞(バルコ・スキャンダル)の捜査に関連して、司法妨害罪と自身の薬物使用について嘘の証言をしたとして偽証罪で起訴され[3][4]、2011年4月13日に司法妨害罪の有罪判決を受けた[5][6]が、2015年4月にサンフランシスコ高裁が司法妨害罪の無罪判決を言い渡し、同年7月に無罪が確定した[7]

MLBにおける通算及びシーズン本塁打記録保持者という実績を誇りながらも、上記の薬物使用疑惑における負のイメージの影響を受け、同じく薬物使用疑惑の付きまとうロジャー・クレメンス同様、有資格を得ながらもアメリカ野球殿堂入りは果たされていない[8]

父のボビー・ボンズも元MLB選手で300本塁打300盗塁を達成しており、史上初の親子で達成した選手である。MVP1回本塁打王4回のレジー・ジャクソンは従兄にあたる。名付け親は本塁打王4回盗塁王4回のウィリー・メイズ
経歴
プロ入り前

カリフォルニア州リバーサイドで生まれ、サンカルロスで育った。3人兄弟の長男(次男・リック、三男・ボビーJr)。幼い頃は父が所属していたサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークに通い、試合をダグアウトから観ていたという。サンマテオのフニペロ・セラ高等学校(英語版)に入学し、野球の他バスケットボールアメリカンフットボールで優れた才能を発揮した。野球においては、入学当初は新人チームに所属し、後に1980年から1982年までの3年間選抜チームのメンバーとして活躍した。高校通算打率.404、3年時には.467を記録し、高校全米選抜チームに選ばれた[9]1982年MLBドラフトでジャイアンツから2巡目に指名を受けるが、球団側の契約金70,000ドルという提示に対し、75,000ドルを要求したため折り合いがつかず[10]アリゾナ州立大学へ進学。

大学では、3年間で打率.347・45本塁打・175打点を記録した[9]。1984年には打率.360・30盗塁、1985年には打率.368・23本塁打・66打点を記録し、同年スポーティングニュースの全米選抜に選出された。大学オールスターには3年連続で選出された。大学2年時にはカレッジワールドシリーズにおいて7打数連続安打というNCAAの大学記録に並び、当時のチームは1996年にカレッジワールドシリーズにおける最高チームに選ばれた[9]。1986年に大学を卒業し、犯罪学学位を取得した。また、ASU On Deck Circle MVPも受賞した[11]。また、大学リーグでありながら非常にマイナーリーグに近いレベルとされている[12]アラスカ夏季大学野球リーグのアラスカ・ゴールドパナーズのメンバーとしてプレイしたこともあった。
プロ入りとパイレーツ時代

1985年のMLBドラフトピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。同年はA級で7月の月間MVPに選出される[13]など打率.299・13本塁打を記録。

1986年AAA級で打率.311・7本塁打・出塁率.435[14]の好成績を挙げ、メジャー昇格を果たす。

5月30日のロサンゼルス・ドジャース戦に「1番・センター」として先発出場しメジャーデビュー[15]。16本塁打・48打点・36盗塁・65四球はいずれもリーグの新人選手で最高だったが、キャリアワーストの打率.223・102三振に終わる。2年目での慌ただしい昇格と、与えられた背番号が敬愛するメイズと同じ24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では6位に入る[10][16]

1987年は希望通り背番号を24に変更。開幕直前にアンディ・バンスライクの移籍に伴いレフトコンバートされる[17]。バンスライクとの左中間コンビはフィールドの外では良好な関係を築くことはなかったが、試合では連携を見せ広い守備範囲をカバーした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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