バリー・ボイト
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バリー・ボイト
Barry Voight

生誕1937年(86 - 87歳)
ニューヨーク州ヨンカーズ
国籍アメリカ合衆国
研究分野火山学工学
研究機関ペンシルベニア州立大学
出身校

ノートルダム大学

コロンビア大学

プロジェクト:人物伝
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バリー・ボイト(: Barry Voight、1937年 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の火山学者、技師である。弟に俳優ジョン・ヴォイト、弟にソングライターのチップ・テイラー、弟の娘に女優のアンジェリーナ・ジョリーがいる。ボイトは、ノートルダム大学で5年間の集中2学位プログラムを受けた後、修士課程に進んだ時には同大でティーチングアシスタントとなった。コーネル大学コロンビア大学で学び、1965年後半に地質学博士号を取得した。ペンシルベニア州立大学を含め幾つかの大学で地質学教授を務めており、ペンシルベニア州立大学では1964年から退職する2005年まで教えた。

地滑りやその他物質移動に関するボイトの論文が、アメリカ地質調査所 (USGS) 従業員ロッキー・クランデルの注意を惹き、ワシントン州セント・ヘレンズ山で膨らんでいる突出部の観察を求めた。ボイトは突出部の破壊と、それに続く山の北斜面の崩壊、さらに強力な噴火を予告した。セント・ヘレンズ山は1980年に噴火し、ボイトの予測が当たった。その後はアメリカ地質調査所に雇われてその噴火を特徴づけた地滑りを調査した。セントヘレンズ山での働きによって国際的に認知された後、その経歴を通じて幾つかの活火山で研究とモニタリング活動を続けた。その対象にはコロンビアネバドデルルイス火山インドネシアムラピ山モントセラト島スーフリエール・ヒルズが含まれている。火山学者および技師としての研究、出版、災害予防の活動によって、幾つかの表彰を受け、また講演者として評価されている。
生い立ちと教育

ボイトは1937年に[1]ニューヨーク州ヨンカーズで生まれた[2]。弟に俳優ジョン・ヴォイト、妹に作詞家のチップ・テイラー[2]がおり、弟の娘に女優のアンジェリーナ・ジョリーがいる[3]

ボイトはノートルダム大学で5年間の集中2学位プログラムを受け、1959年に地質学で、1960年に土木工学で学士号を受けた[4]。1961年にはノートルダム大学から土木工学で修士号を受けた[5]。ボイトはその科学における興味についてノートルダム大学での恩師であるレイ・ガットシック教授とエアハート・ウィンクラー教授のお蔭だと言っている[6]コーネル大学で1年間学んだ後、コロンビア大学に転籍し、そこでフレッド・ドナス教授の下で学び、1965年に地質学の博士号を受けて卒業した[7]。コロンビア大学に在籍している間に、学長のフェローに指名された[5]
教職

ボイトは1961年に教職を始め、ノートルダム大学で土木工学の修士号を求めながら、大学のティーチングアシスタントを務めた。1961年から1963年、コーネル大学とコロンビア大学でもティーチングアシスタントを務めた。1964年、ペンシルベニア州立大学地質学助教として教員となり、1978年には地質学と環境地盤工学の常勤教授となった[5]。ペンシルベニア州立大学には40年以上も在籍し、2005年6月に退職した[8]。同大で働きながら、採鉱学部と合同授業を行い、「土木工学のための物理地質学」と「火山学」の2つの科目を教えた。この時代に、1972年にはオランダデルフト工科大学でも客員教授として教えた。1973年にはトロント大学で、1981年にはカリフォルニア大学サンタバーバラ校で派遣教授となった[5]。2009年時点で、ペンシルベニア州立大学の名誉教授となっている[9]
火山学の仕事と研究
初期の任務ボイトはセントヘレンズ山の突出部の崩壊が噴火に繋がることを正しく予告した。セントヘレンズ山は1980年5月18日に噴火した

ボイトは1971年にアメリカ合衆国鉱山局で働くことで、地質学者としての経歴を始めた[5]。1978年、『岩盤滑りとなだれ』と題する、地滑りに関する最初の論文集を出版した。1980年にその2巻目を出版した後、地滑りとその他形態の物質移動に関する研究でベンチマーク(基準)となった[10]

1980年のセントヘレンズ山の噴火以前、ボイトはロッキー・クランデルからの接触を受けた[11]。クランデルはアメリカ地質調査所の職員であり、セントヘレンズ山で働いていた[12]。クランデルは、セントヘレンズ山の北面に現れていた、長さ270フィート (82 m) ある成長しつつある突出部についてボイトが見解を述べてくれることを期待し、地滑りに関するボイトの専門知識を求めた[11][13]。ボイトはクランデルとその仲間に宛てた報告書で、その突出部が壊れて、山の北側全体の崩落に繋がりうると主張していた。その崩落が噴火の引き金になることを心配し、突出部の移動率を監視し始めることを提案した。また、地元の測量士を雇って測定を行うことも助言し、地質学者数人を怒らせた[14]。それから間もなく、ボイトは山を離れて、ペンシルベニア州立大学の教職に戻った。噴火が起きる直前に、その予告を要約する論文を出版し、突出部の破壊と山の北斜面の崩壊、さらにその後の激しい噴火を説明し、それがすべて本当のことになった[15]。北斜面の直下を震源とするマグニチュード5.1の地震が、午前8時32分に火山のその部分の地滑りを誘発した後[16]、火山が噴火し、11億ドルの物損を出させ、57人の命を奪った[17]。その噴火後、ボイトはアメリカ地質調査所のコンサルタントの地位を引き受けた。火山の噴火中に起きた地滑りの調査に入り、ハリー・グリッケンなど他の火山学者を指導した[18]。グリッケンはボイトの初期研究の上に立って、『ワシントン州セント・ヘレンズ火山の1980年5月18日の岩盤すべり屑なだれ』(1996年)と題した報告書を作成した[19]。ボイトはこの仕事で国際的な名声を獲得し[7]、後にそこでの経験を「人生を変えるもの」と表現した[20]。この頃既にボイトは火山学に関する興味を増していたが、セントヘレンズ山の噴火で、ボイトの仕事を切り替えさせ、その分野に生涯を捧げる気持ちにさせた。ボイトの仕事が、人命に脅威を与える可能性がある火山の地滑りなどの現象に関する広い関心を再活性させることに役立った[8]


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