バヤズィト1世
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バヤズィト1世
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オスマン皇帝
バヤズィト1世
在位1389年6月16日 - 1402年7月20日

出生1360年

死去1403年3月8日
アクシュヒル
配偶者デウレト・シャー・ハトゥン
 デウレト・ハトゥン
 スルタン・ハトゥン
 デスピナ
 マリアなど
子女エルトゥールル
スレイマン・チェレビー
メフメト
イーサー
ムーサー
ムスタファ
家名オスマン家
王朝オスマン朝
父親ムラト1世
母親ギュルチチェク・ハトゥン
サイン
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バヤズィト1世(トルコ語:I. Beyaz?t、 1360年 - 1403年3月8日)は、オスマン帝国の第4代皇帝(在位: 1389年 - 1402年)。日本語ではバヤジット1世とも表記される。ムラト1世の子。

積極的な外征と迅速な決断より、「雷帝」「稲妻」(イュルドゥルム、イルディリム)と呼ばれた[1]
生涯
即位、オスマン宮廷の「兄弟殺し」の始まり

1360年にオスマン皇帝ムラト1世とバルカン半島の奴隷出身の妃ギュルチチェク・ハトゥンの子として産まれ、幼少時代を第二宮廷のあったアナトリア半島のブルサで過ごしている。

王子時代より戦場で活躍し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、彼がムラト1世の後継者に指名される。ムラトが取り決めた政略結婚によりゲルミヤン侯国(英語版)の王女と結婚、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤなどの都市がオスマンに譲渡された[2]

1389年6月15日コソボの戦いの最中、ムラトがセルビア人の貴族によって暗殺されると、6月16日にバヤズィトが即位した。コソボの戦いには彼以外にヤクブら弟たちも従軍していたが、即位後直ちにバヤズィトは人望の厚いヤクブ[3]をはじめとする弟たちを処刑し、スルタンの地位を確かなものとした[1]。この弟たちの粛清が、彼の治世以降のオスマン帝位継承に伴って起きる兄弟殺しの先例となる[4][5]

ムラトが暗殺された時点のオスマン軍は、左翼がセルビア騎兵隊に撃破された危機的な状況にあったが、跡を継いだ彼は体勢を立て直してセルビアを破り、セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチら捕虜とした貴族を処刑した[6]。この時にバヤズィトは自ら武器を取って敵軍に突撃し、血路を開いたと言われる[7]1390年、バヤズィトはセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナ(トルコ語版)を娶り、義弟ステファン・ラザレヴィチ(英語版)もバヤズィトに臣従し、以後セルビアはオスマン帝国の属国として存続することとなった。

バヤズィトの即位に際して、ビザンツの宮廷でも政変が起きる。セリュンブリア(英語版)を統治していたアンドロニコスの子ヨハネス7世がオスマンに臣従を誓い、バヤズィトはオスマンに完全に服従していなかった皇子マヌエルの対立帝としてヨハネス7世を擁立した[6]。オスマンに加えてジェノヴァの支援を受けたヨハネス7世は反乱を起こして1390年4月に即位、ヨハネス7世の治世は5か月余りであったが、ヨハネス7世が帝位を追われた後もビザンツ帝位はオスマンの影響下に置かれる[8]
アナトリア、バルカン半島での征服事業

即位後、ムラト1世の崩御を好機と見たアナトリアの領主たちが反オスマンの動きを見せ始める。

アナトリアにおける最大のライバルであるカラマン侯国(英語版)の君主であり、バヤズィトの義弟でもあるアラー・アッディーン(英語版)はサルハン侯国アイドゥン侯国メンテシェ侯国と共にオスマン領に侵入、ゲルミヤンの君主でバヤズィトの義兄弟であるヤクブ2世(トルコ語版)もオスマンに割譲された都市を奪回する動きを見せていた[9]。バヤズィトはセルビアと和約を結んでアナトリアに渡り、1390年より父の征服事業を引き継いでのアナトリア遠征を開始する。遠征軍にはビザンツ帝国、セルビア、ブルガリアアルバニアなどのバルカン半島の臣従国も参加しており、アナトリアに残っていた最後のビザンツ領であるフィラデルフィア攻略にはビザンツの皇子マヌエルも従軍していた[8]。遠征によってサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミド侯国といったアナトリアのベイリクを征服し、ヤクブ2世を逮捕してイプサラ(英語版)に送り、ゲルミヤンも支配下に置いた。1391年にカラマンの首都コンヤを包囲し、アラー・アッディーンにアクシュヒル(英語版)、ニーデアクサライの割譲を認めさせての有利な和約を結ぶ。

1391年にビザンツ皇帝ヨハネス5世が崩御すると、アナトリア遠征に従軍していたマヌエルはバヤズィトに無断でブルサを脱出し、コンスタンティノープルに帰還し帝位に就いた。マヌエルの帰還後に7か月の間コンスタンティノープルの包囲するが、ハンガリーが軍事活動を開始する動きを見せると[9]、貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めて包囲を解除した[10]、1393年末よりモレアス専制公テオドロス1世がオスマンの従臣を攻撃して領地を広げると、マヌエル兄弟の反逆行為に激怒したバヤズィトはバルカン半島の従臣を召喚して彼ら兄弟に処罰を与えようとした[11]。マヌエル、テオドロスは臣従の誓いを破棄し、1394年夏より7年にもわたるコンスタンティノープル包囲が開始された。

コンスタンティノープル包囲の間にもバヤズィトは別働隊をバルカン半島各地に派遣し、テッサリア、セルビア、ブルガリアを攻めてドナウ川に至る通行路を掌握した[10]。オスマン帝国に従属していたブルガリアが、バヤズィトがバルカン半島を留守としたことを好機と見て[12]1393年にハンガリーの支援を受けて反乱を起こすと、ブルガリアに討伐軍が派遣される。3か月の包囲の末に同年7月17日にブルガリアの首都タルノヴォを陥落させ[13]ニコポリスに逃れていたブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(英語版)を一時的に帝位に留める。

タルノヴォ攻略後にバヤズィトはワラキア国内に存在するワラキア大公ミルチャ1世の政敵を援助して反乱を起こさせ[12]、ワラキアへと軍を進めた。1395年5月にオスマン軍はミルチャ1世に勝利を収めるが、同年7月17日のロヴィネの戦い(英語版)で敗北、ドニエプル川南岸までの退却を余儀なくされる[14]。また、ワラキア遠征においてブルガリアに乱立していた僭主国を併合、遠征の帰路でイヴァン・シシュマンを処刑してブルガリアの大部分を手中に収める。ブルガリア内で独立を保っていた勢力はオスマンに臣従を誓っていたヴィディン王国のみであった[13]

セルビア公ステファン・ラザレヴィチ(英語版)に対しては北セルビアの領有権を認め、ラザレヴィチも貢納と兵力の提供を積極的に行った。


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