この項目では、1980年代後半 - 1990年代初頭の日本のバブル景気について説明しています。
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日本のバブル景気時代に新卒就職期を迎えた世代については「バブル世代」をご覧ください。
日本のバブル景気の崩壊については「バブル崩壊」をご覧ください。
1989年に、三菱地所が8億4600万ドル(当時の日本円で約1200億円[1])で買収したニューヨークのロックフェラー・センター。
当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴となった。
バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、あくまで日本だけにおける好景気の通称で内閣府の景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、バブル経済期(バブルけいざいき)または、バブル期(バブルき)や単にバブル、昭和バブル(しょうわバブル)[2]とも呼ばれる[3]。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環(内閣府の景気基準日付)という通称で指標を示している。
ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1987年10月19日のブラックマンデーを過ぎた翌1988年頃からであり、政府見解では、日経平均株価が38,957円の史上最高値を記録した1989年12月29日をはさみ、バブル崩壊後の1992年2月頃まで、この好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている[4] 日本では、1986年-1991年までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大期間を指すことが主である。目安となる指標も多く存在し、景気動向指数(CI・DI等)、土地価格(公示価格・調査価格の6大都市、地方、平均値等)、株価、GDP(総GDP伸び率等)、消費者物価、民間消費支出等どれを基準にするかということと、政府見解により諸説は左右される。 1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上に毎日繰り返された不動産価値の宣伝により[5]、地価は異常な伸びを見せる。当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。このことを指して「バブル経済」と呼ばれるが、実際には経済のバブル化などという概念は存在しない。あくまでも経済政策の失敗による未曾有の好景気を後退局面に追いやった、後付の日本独自の呼称であることに留意するべきである。 バブル経済とは、総じて結果論として語られることが多く、その過剰な拡大期間の中では単に「好景気」といわれる。バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。結果として、過去のその経済状況を否定的な意味あいでバブルなどと呼称する。 日本の景気動向指数でみる、景気循環における第11循環の拡大期に当たる。指標の取り方にもよるが、おおむね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指すのが通説である(昭和天皇が吐血した1988年9月19日から翌年2月24日の大喪の礼頃まで自粛ムードあり)。これは、2002年2月から2008年2月まで73か月続いた長景気(通称:いざなみ景気、かげろう景気など)や1965年11月 - 1970年7月の4年9か月の57か月続いたいざなぎ景気に次いで第二次大戦後3番目に長い好況期間となる。 バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、急激に国際競争力を失った輸出産業は大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く(現在は18%程度)、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。内需拡大の掛け声とともに、平成元年に所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられ、富裕層を中心に手取り収入が最大2倍近く増えたことがバブル景気を後押ししていた。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である[要出典]。 日本のバブル崩壊による深刻な経済問題が表面化するまでには数年の時間を要し、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。1992年には政治的に宮沢喜一などが公的資金投入による早期の不良債権処理に言及しているが、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関などからの強い反対に遭い実行に至らなかった。バブル崩壊と同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、失われた10年の引き金となった。 実体経済から乖離して資産価格が一時的に大幅に高騰し、その後急速に資産価格の下落が起こる様子を、中身のない泡が膨れて弾ける様子に例えて「バブル」と呼ばれる。泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。バブル景気の終焉はバブル崩壊と呼ばれ、まさに「バブルが弾けた」と形容された。1990年代初期には「平成景気(第一次平成景気)」とも呼ばれていた。 1980年代後半当時は「バブル景気」という言葉は一般に認知されていなかった[6]。「バブル景気」という語は1987年に命名されたとされる。野口悠紀雄は1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」という論文を『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、「私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」という言葉で規定したのは、これが最初である」と述べている[7]。 基になった「バブル経済」という語自体は1700年代のSouth Sea Bubble(南海泡沫事件)を語源とし、1990年にはすでに「バブル経済」という言葉が新語・流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」[注釈 1]で受賞している。しかし、この語が広く一般に実感を伴って認知されたのはむしろバブル崩壊後であった。バブル崩壊後には平成不況(第一次平成不況)が到来し[8]、その後の不況期は「失われた10年」、さらに不況が長期化するにつれ「失われた20年」「――30年」と呼ばれた。 政府・日本銀行の金融・財政政策による景気刺激策がバブルの主因とされている[9]。 安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月のプラザ合意である[10]。その後のルーブル合意まで100円以上の急速な円高が進行する[10]。ミルトン・フリードマンは「日本の『バブル経済』は、1987年のルーブル合意がもたらしたものである」と指摘している[11]。 バブル以前の1985年のプラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、急激に国際競争力を失った輸出産業は大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。
概要
景気の名称(通称)の由来
要因1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日(1985年9月22日)を示す。プラザ合意後、急激に円高が進行している。