バブル時代
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景気については「バブル景気」をご覧ください。

バブル世代」とは異なります。
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バブル時代(バブルじだい)では、1985年から1991年までの日本で起こったバブル景気の時代について記述する。
ビジネス
地上げ

潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。1980年代後半、東京原宿の「原宿セントラルアパート」のビルは、大規模な地上げの舞台となった[1]

都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。東京都内では、暴力団も含んだ地上げ屋による土地所有者への嫌がらせが横行し、放火なども相次いだ[2]

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。
財テクブームと消費の過熱1987年、安田火災(当時)が約57億円で購入した絵画「ひまわり

バブル経済下では金融・資産運用で大幅な利益を上げる例が強調され、企業においても本業で細々と着実に利益を上げたり、保有株式の配当金等よる利益(インカムゲイン)を上げるのでなく、所有する土地や高級車、マンション、金融資産を運用して大きな収益(キャピタルゲイン)を上げる「財テク(○○転がし)」に腐心する例もあった。

潤沢な資金による買い漁りの対象は、NTT株の公開に伴う一般投資家による投資や、フェラーリロールス・ロイスベントレーなどの高級輸入車サザビーズなどが開催したオークションによるゴッホルノワールなどの絵画骨董品、にまで及ぶなど、企業富裕層のみならず、一般人まで巻き込んだ一大消費ブームが起きた。

これらの背景には、中小企業主に対する融資が緩くなったことや、企業に勤めて新居購入のために貯金をしていた世帯が、土地価格の急激な上昇のため新居取得を諦め、新車購入や旅行、消費に走ったことが原因として挙げられる。

1989年に内需拡大の掛け声とともに、所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられ、富裕層を中心に手取り収入が最大2倍近く増えたことが、資金供給に追い打ちをかけた形になっている。
行政
公共施設

好景気による税収の増加を背景に、各地で利用頻度の低い公共施設を建設する例が相次ぎ、箱物行政と揶揄された。バブル崩壊後は維持費が負担となり、負の遺産として問題となった。

バブル期には各地で公共の水族館が建設されたが、設備の寿命が30年とされるなかで景気後退により修繕費が捻出できず、2020年ごろから閉園が相次いでいる[3]
就職「バブル世代」も参照
就職売り手市場

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり経営多角化を行うために新卒者向けの募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなった。多く企業が学生の目を惹き付けることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行った。

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにするため、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡ができないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った[4]他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになった(都市伝説一覧を参照)。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため、夜中2時過ぎまでの残業や月に1?2日程度しか休みが取れないといった事態がざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保することが急務だった。体育会系の学生は我慢強く体力があり、上下関係による人脈で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気があった。特に証券等は、現場が人手不足だったので、OBを通じて学生に食事を振る舞うなどしてまで入社させた。

ただし注意を要するのは、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要がある。すなわち恩恵を得たのは主に大都市圏の国立・上位私立大学である。したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向である。その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在のほうが、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえる。もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2-4番手の大企業に就職できたことから、当時の方が総じて就職活動は容易であった。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった[5]。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減った。また、以後の採用が長年に亘って細ったことから「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かった。

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほどには受けなかった。このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「公務員はバカがなるもの」と見下されがちだった。とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行った。
文系就職

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動いた。また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通やサントリー、カネボウフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミ広告代理店、外資系企業などの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到した。

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになった。理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職することを指して文系就職とも言われた。これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出たが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示されることもあり、不公平であるとの批判も起こった。
文化・流行・社会現象

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メセナ活動

バブル期は、企業が文化・技術・スポーツ振興に資金提供するなど、「メセナ活動」が多かった(バブル崩壊後は、企業の経営が苦しくなり縮小していった)[6]
マスメディア

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が得られるようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入された。この時期はファッションモデル出身の若手俳優や女優を主役に据え、生活感が皆無な毎日の暮らしを描いた「トレンディドラマ」が若い女性にブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていた。経済学者の田中秀臣は「経済状況が好転すると、物質的消費が特徴のトレンディドラマが流行する」と指摘している[7]

また、アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣った(スタイルを真似る、英語アナウンスの多用等)「お洒落な音楽だけを流すFM放送局」が登場したのもこの当時(J-WAVEなどJAPAN FM LEAGUE参加局や、平成新局の各社)のことであるが、これらのFM局の多くはその後、方針を修正することとなる。

テレビコマーシャルも従来の商品宣伝型CMは下火になり、それに変わって企業イメージを向上させることを目的としたCM(JR東海シンデレラエクスプレス等)が多く製作された。
流行語

バブル景気直前の1984年には、金持ちと貧乏人の生活や価値観を対比させた 渡辺和博 の著書『金魂巻 現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造』で使用された「○金○ビ(まるきん・まるび)」が第1回流行語大賞となり、バブル景気時にもそのまま使用される。『金魂巻』はバブル期にベストセラーとなった[8]。またこの年、前年に『構造と力―記号論を超えて』がベストセラーになっていた浅田彰が、第二著『逃走論 スキゾキッズの冒険』で、人間のタイプを「スキゾ・パラノ」に分類し、同新語部門銅賞を受賞した。

この頃は空前の好景気で国内外・昼夜を分かたず猛烈に働くことが時代の趨勢となり、「24時間戦えますか」のCMコピーが流行した。詳細は「勇気のしるし」を参照

新たな価値観・感性を持った若者は「新人類」と称された。但し「いまどきの新人類は――」などと若者をなじる時に使われ、決して肯定的な意味で使われていた訳ではない。ファッションでは「DCブランド」が持て囃され、その販売員は「マヌカン(ハウスマヌカン)」と呼ばれた。「ワンレンボディコン」の女性の一部が求める結婚相手は「三高」だとメディアは報じ、若手エリート・「ヤンエグ」(ヤング・エグゼクティブ。青年実業家や起業家)の服装はジョルジオ・アルマーニのソフトスーツに代表される時代であった。

若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」と言われた。

また一部の男性は女性の気を引くべくプレゼントを贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えられ、このような一部男性は「アッシーくん」、「メッシーくん」、「ミツグくん」、「キープくん」などと蔑んで呼ばれた。そして彼らに対する正式な“彼氏”は「本命くん」と女性は呼んだ。一方で、一部の羞恥心を欠いた中年女性を「オバタリアン」、品がなくて、帰宅したら家族に「風呂、飯、寝る」しかいわないような若い女性を「おやじギャル」と呼んだりもした。

セゾン文化の発信地だった「渋谷公園通り」や、港区芝浦などの「ウォーターフロント」地区が「トレンディ」で「ナウい」場所とされ、松井雅美や山本コテツなどの「空間プロデューサー」がデザインした飲食店は「カフェバー」と呼ばれた。
ネクラ・ネアカ、オタク

バブルの手前、フジテレビが「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」にキャッチコピーを改め、カルチャーならぬ「軽チャー路線」を打ち出した1980年代前半ごろから、「ネクラ」・「ネアカ」・「ダ埼玉」という言葉が世を席巻した。また物や人間の価値をも「明暗」を基準に判断する風潮が生まれた。その当時「ネクラ」な性格は忌み嫌われ、いじめや仲間外れの格好のターゲットにされたため、多くの人は暗いと思われることを恐怖し、努めてネアカに振舞おうとした。

笑っていいとも!』が一大ブームになり「いいとも!」が流行語になったり、第一次漫才ブームツービートなどのブラック漫才が流行るなど、新たなコメディのジャンルが確立したものの、相方の頭を叩いたり、悪口や人の弱みに付け入ることをいって笑いをとる風潮も生まれた。この頃から学校で「葬式ごっこ」などのいじめ問題がエスカレートした[9]

「まじめ」も崩壊し[10]、その当時の人々の間では、正義などの尤もらしいことを語ると「クラい」「ダサい」と馬鹿にされ、恋愛友人関係、青春期の悩みなどを友人に相談しようとしても、相手にされず、せせら笑われた人々も多かった。一方で、そんなネアカ・軽薄短小といわれた時代に、違和感や息苦しさを感じていた人も多く、彼らは天才ロッカーと後に呼ばれる「尾崎豊」を聴いたりしていた。


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