バハードゥル・シャー_(グジャラート・スルターン朝)
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バハードゥル・シャー
Bahadur Shah
グジャラート・スルターン朝君主
バハードゥル・シャーのコイン
在位1526年 - 1537年
別号スルターン

出生不詳

死去1537年2月14日

王朝グジャラート・スルターン朝
父親ムザッファル・シャー2世
宗教イスラーム教
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クトゥブッディーン・バハードゥル・シャー(Qutb-ud-Din Bahadur Shah, 生年不詳 - 1537年2月14日)は、西インドグジャラート・スルターン朝の君主(在位:1526年 - 1537年)。
目次

1 生涯

2 脚注

3 参考文献

4 関連項目

生涯 ムガル帝国軍と戦うバハードゥル・シャー(1535年 ポルトガルに殺害されるバハードゥル・シャー

バハードゥル・シャーはグジャラート・スルターン朝の君主ムザッファル・シャー2世の息子として生まれた。後継者には兄(ただし弟とする場合もある)のシカンダル・シャーが指名されていた[1]

バハードゥル・シャーの幼少期も苦難に満ちたものであり、その生涯を通して全てが戦いであった。ポルトガルの年代記作者ディオゴ・デ・コウトが16世紀に書いたグジャラート王国に関する、バハードゥル・シャーの記述を見ると以下のように記されている[2]

その中では、バハードゥル・シャーはムザッファル・シャー2世の最初の息子とされ、彼がまだ子供のときに占星術師が彼の父に王国が彼の長男の手に奪われるであろうと告げられたからか、あるいは彼の父がより愛していた弟に王国を継承させたかったのか、ムザッファル2世はバハードゥル・シャーに悪意を抱くようになったのだという[3]。そのため、バハードゥル・シャーは自分から逃げ出し、巡礼者あるいはカランダル(ペルシア語で「世捨て人」を意味する)になってヒンドゥスターン(インド)を放浪した[4]

バハードゥル・シャーはこのように放浪者として数年を過ごしたが、1526年に転機が訪れた。放浪しているさなか、父ムザッファル・シャー2世が死去し、弟のシカンダル・シャーが継承した[5]。しかし、彼は間もなく死亡し王国はもうひとりの弟マフムード・シャー2世に継承された[6]

ムザッファル2世の死去の知らせがヒンドゥスターン中を駆けめぐると、それはバハードゥル・シャーにも届いた。彼は直ちに王位を要求するために戻り、聞くところよればカランダルの出で立ちのまま、首都アフマダーバードの宮殿に入った[7]。そこには継母とその息子である少年の王(マフムード・シャー2世)もいた。彼は自分が何者であるか誰にも告げずに入っていって母に会って正体を明かし、王国を継承できるように必要な命令を下すことを彼女に求めたが、「皇后は弟が彼を見つければ彼を殺そうとするだろうから、ここを離れたほうがよい」と告げた[8]

バハードゥル・シャーは幻滅し、 マールワー・スルターン朝の君主マフムード・シャー2世のもとへ行って自らの素性を明かし、王国を取り戻すのに必要な援助を求めた[9]。王はあらゆる援助を約束し、また王自らが彼を助けるために立ち上がることさえ約束した。さらに王はこの目的のために、周辺の諸王に大軍を率いて加わるように依頼した。バハードゥル・シャーはマールワー・スルターン朝とメーワール王国の援助を得て、同年に弟マフムード・シャー2世を破り即位した[10]

だが、バハードゥル・シャーは即位するや否や、その援助を行ったマールワー・スルターンやメーワール王国を攻撃し、1531年にはマールワー・スルターン朝を滅ぼした[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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