バハードゥル・シャー2世
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バハードゥル・シャー2世
????? ??? ???
ムガル皇帝
バハードゥル・シャー2世
在位1837年9月28日 - 1858年3月29日
戴冠式1837年9月29日
別号パードシャーインド皇帝

全名シラージュッディーン・ムハンマド・アブー・ザファル
出生1775年10月24日
デリーデリー城
死去1862年11月7日
ビルマラングーン
(現ミャンマーヤンゴン
埋葬ビルマラングーン
配偶者下記参照
子女下記参照
王朝ムガル朝ティムール朝
父親アクバル2世
母親ラール・バーイー
宗教イスラーム教スンナ派
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バハードゥル・シャー2世(ウルドゥー語: ????? ??? ???‎, Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)は、北インドムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837年 - 1858年)。第16代君主アクバル2世の長男(夭折した兄がいるので正確には次男)。母はラール・バーイー。

1837年、バハードゥル・シャー2世は62歳の高齢で帝位を継承した。だが、この頃すでにムガル王朝の権力はデリー周辺にしか及ばず、インド内部はそれ以外の各地で地方勢力や欧州列強が入り乱れる錯綜とした社会となっていた。

特に、1757年プラッシーの戦いフランスからインド植民の権利を勝ち取ったイギリス東インド会社の勢力は、18世紀後半以降インド半島全域で大幅に拡大してゆき、1845年から1849年にかけてシク戦争を起こしてシク王国を滅ぼし、いよいよイギリスがインド全体の支配者になろうとしていた。

1857年5月インド大反乱(セポイの乱)が勃発すると、バハードゥル・シャー2世はデリーに入城した反乱軍によりその最高指導者として擁立された。だが、彼は反乱軍に協力的ではなく、9月にデリーが占拠されると、あっさり降伏してしまう。

1858年、イギリスはバハードゥル・シャー2世をビルマラングーンへと追放し、これによってムガル帝国は終焉を迎えた。廃帝は追放先のラングーンで一族と余生を過ごし、1862年に失意のうちに死亡した。
生涯
即位以前と即位バハードゥル・シャー2世の即位式の様子を描いた絵画。横には皇子ミールザー・ファトフル・ムルク(左)とミールザー・ファルフンダ・シャー(右)がいる

1775年10月24日、バハードゥル・シャー2世ことミールザー・アブー・ザファルは、ムガル帝国の皇帝アクバル2世とその側室ラール・バーイーとの間に生まれた[1]

当時、ムガル帝国は衰退の中にあり、あらゆる勢力の中で権威のために利用され、1788年には祖父のシャー・アーラム2世と父は盲目にされてしまった。

ムガル帝国はマラーターの保護下にあったため、1803年8月に勃発した第二次マラーター戦争にも巻き込まれ、9月にはデリーイギリスの保護下に入った。父アクバル2世の治世、イギリスはあらゆる方法で帝権を削り、皇帝の権威はデリー城の中でしか行使できなくなくなり、その年金生活者となっていた。

帝室の間でも内輪もめがあった。アクバル2世の妃ムムターズ・マハルは息子のミールザー・ジャハーンギール・バフトを皇太子に推し、父もそれを認めたため、兄でありかつ庶子のミールザー・アブー・ザファルは帝位継承者から外されてしまった[1]

だが、1812年にミールザー・ジャハーンギール・バフトは祭りの最中にイギリスの駐在官を銃で射撃してしまったため、彼はデリーから追放され、兄であるミールザー・アブー・ザファルが再び皇太子となった。とはいえ、彼もまた皇太子時代には、イギリスと意見の食い違いから問題を起こしていたようである[2]

1837年9月28日、皇帝アクバル2世は帝都デリーで崩御し、ミールザー・アブー・ザファルは「バハードゥル・シャー(2世)」の称号のもとを即位した[1]。このとき、彼の戴冠を執り行ったのはイギリスのインド総督代理だったことから、イギリス勢力の伸長がうかがえる[2]
平和な治世とイギリスの侵略完了バハードゥル・シャー2世のダルバール

バハードゥル・シャー2世はその治世下、父アクバル2世と同様に、宮廷儀礼やデリーを練り歩く大行列をよく行った[2]


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