『バニティ・フェア (Vanity Fair)』は、1868年から1914年まで刊行されていた、イギリスの週刊誌。 「政治、社会、文学の諸々を毎週紹介 (A Weekly Show of Political, Social and Literary Wares)」と副題が付けられていたこの雑誌は、トマス・ギブソン・ボウルズ
歴史
ボウルズは、この雑誌の記事の大部分を、「ジェフ・ジュニア (Jehu Junior)」など様々な筆名を使って自ら執筆していたが、ほかにもルイス・キャロル、ウィリー・ワイルド (Willie Wilde)、P・G・ウッドハウス、ジェシー・ポープ (Jessie Pope) や、1904年6月から1906年10月まで編集者も務めたバートラム・フレッチャー・ロビンソン (Bertram Fletcher Robinson) などが寄稿していた[1]。
1911年、既に財政的に行き詰まりかけていた『バニティ・フェア』誌は、フランク・ハリスからトマス・アリソン (Thomas Allinson) へ売却された。しかし、アリソンはこの雑誌の立て直しに失敗し、1914年2月5日には『バニティ・フェア』の最終号が刊行され、同誌は『Hearth and Home』誌に統合された。
風刺画詳細は「en:Vanity Fair caricatures」を参照
『バニティ・フェア』のほとんどの号には、同時代の人気者やお偉方などを取り上げたカリカチュアを、全頁大の多色刷りリトグラフで掲載しており、この雑誌の名物として当時も[2]、今日でもよく知られている[3]。取り上げられた人物には、芸術家、スポーツ選手、王族、政治家、科学者、作家、俳優、軍人、宗教関係者、実業家、学者などがいた。のべ2000点以上が掲載されたカリカチュアは、同時代の画像による記録となっており、この雑誌の最も重要な文化遺産と考えられている。このカリカチュアは、各国の様々な描き手によっており,その中にはマックス・ビアボーム (Max Beerbohm)、サー・レスリー・ウォード(Leslie Ward:作品に「Spy」や「Drawl」と署名した)、イタリア人であるカルロ・ペリグリーニ(Carlo Pellegrini:「Singe」、「Ape」)、メルチオレ・デルフィコ(Melchiorre Delfico:「Delfico」)、リボリオ・プロスペリ(Liborio Prosperi:「Lib」)や、フランス人のジェームズ・ティソ(James Jacques Tissot:「Coide」)、アメリカ人のトーマス・ナストなどがいた[4]。
ギャラリー
アバコーン公爵 - カルロ・ペリグリーニ作、1869年9月25日号
ベンガルのマンスール・アリ・カーン (Mansur Ali Khan of Bengal - アルフレッド・トンプソン(「Atn」)作、1870年4月16日号
ヨーク大主教ウィリアム・トンプソン (William Thomson, Archbishop of York) - カルロ・ペリグリーニ作、1871年6月24日号
チャールズ・ダーウィン - ジェームズ・ティソ作、1871年9月30日号
ジョン・ティンダル - アドリアーノ・チェチオーニ作、1872年4月6日号
アレクサンドル・デュマ・フィス - テオバルド・シャルトラン (Theobald Chartran) 作、1879年12月27日号
E・H・イガートン少佐 (Maj. E.H. Egerton) - リボリオ・プロスペリ作、1889年8月24日号
南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)大統領ポール・クリューガー - レスリー・ウォード作、1900年3月8日号
鉄道事業家アーチャー・ベイカー (Archer Baker) - ルーク・フィルズ (Luke Fildes) 作、1910年1月13日号
アレクサンドラ王妃 - 署名なし、1911年6月7日号
シャーロック・ホームズを演じるウィリアム・ジレット - 1907年
ノルウェーの作家ヘンリック・イプセン - 1901年12月12日号