バナト
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ヨーロッパの地図に示されたバナトの位置バナトは三カ国にまたがっている。桃色がハンガリー領バナト、黄色がセルビア領バナト、青がルーマニア領バナト

バナト、バナート(セルビア語:Банат / Banat)、バーナートないしバーンシャーグ(ハンガリー語:Banat / Bansag)は、中央ヨーロッパ東欧の地理的・歴史的な名称であり、パンノニア平原の一部を成す[1][2]。現在は、東部をルーマニア、西部をセルビア、わずかに北部をハンガリーが領有している。南はドナウ川、西はティサ川、北はムレシュ川、東は南カルパチア山脈が境となる。歴史的にティミショアラ(ハンガリー語:テメシュヴァール、ドイツ語:テメシュブルク、セルビア語:ティミシュヴァル)を中心都市として発展した(現ルーマニア、ティミシュ県)。
概要

「バナト」(Banat)という名詞が特に但し書きなしに用いられる場合、それは今日のルーマニアセルビア(ヴォイヴォディナ)、ハンガリーにまたがる「ティミショアラのバナト(英語版、ルーマニア語版、セルビア語版、ドイツ語版)」(テメシ・バーンシャーグ(ハンガリー語:Temesi Bansag)、テミシュヴァルスキ・バナト(セルビア語:Темишварски Банат / Temi?varski banat)、バナトゥル・ティミショアレイ(ルーマニア語:Banatul Timi?oarei)、またはテミシュワーラー・バナート(ドイツ語:Temeschwarer Banat)を指す。

由来として「バナト」(ルーマニア語及びドイツ語: Banat、セルビア語: Банат)とは、バン(太守・総督)が治める辺境地方を意味する。バン(ban)はスラヴ語発祥の言葉で、卿、知事、副王といった意味である。このため、バナトを日本語に意訳すれば「県」となる。中世ハンガリー王国には数カ所のバナトがあった。ダルマチアスラヴォニアボスニア、クロアチアといったバナトであった。これらはヨーロッパでの対オスマン帝国戦争(トルコ戦争)の過程で消滅した。また、「バナト」は1920年代から1930年代のユーゴスラビア王国の自治体であった「バノヴィナ」(クロアチア語: Banovine、セルビア語: Бановине)の語源にもなっている。ゼタ、ドリナ、サヴァ、モラヴァなどである。

「ティミショアラのバナト」地方はバンによって支配されたことはなかった。しかし1718年のパッサロヴィッツ条約以後、この呼称を獲得したのだった。バナトにはセルビア人ルーマニア人ハンガリー人ロマ人、バナト・シュヴァーベン人(en)として知られるドイツ人、クラショヴァニ人(en)(14世紀にトルコによって移住させられた南スラヴ系の人々。民族的にはクロアチア人とされる)、スロバキア人バナト・ブルガリア人カトリック教徒。オスマン帝国の迫害を逃れハプスブルク領バナトへ18世紀に移住してきた)、チェコ人など数多くの民族が小集団で暮らしている。バナトに住む者はバナト人と呼ばれる。

バナトの名は、この地域で話される言語で同じように表される。ルーマニア語ではバナト、セルビア語でバナト(Банат)、ハンガリー語でバーナート(Banat)またはバーンシャーグ(Bansag)、ドイツ語ではバナート、トルコ語でバナト、スロバキア語でバナート(Banat)、バナト・ブルガリア語でバナート(Banat)、標準ブルガリア語でバナト(Банат)となる。
歴史
初期

現在のバナトの最初に知られた住民は、サルマタイ族の分枝である。山岳国境地帯の一帯はダキアの一部であった。地域での力の均衡はローマ皇帝トラヤヌスの対ダキア人遠征で変わった。バナトはローマ支配下となり、以来属州ダキアと帝国の他州との間をつなぐ重要な土地となった。ローマ帝国支配は、この地域への目立ったローマ人植民にはつながらなかった。彼らはわずかな防衛拠点をつくったが、移住はしなかった。この結果、ダルマチアのバナト支配が固定される結果となり、ダルマチアはローマの同盟者とされた。150年以上のローマ支配後、皇帝アウレリアヌスはダキアから退却した。

一帯はサルマティア人の手に落ち、後にダキアを手中に収めたゴート族のものとなった。ゴート族は、今日のバナトの北西部にあたるカルパチア盆地に本拠地を置いたフン族によって追い立てられた。アッティラの死後、フン族の帝国は瓦解し、かつてフン族に従属していたゲピド族がカルパチア盆地に新王国を築いた。そしてわずか100年後にはアヴァール人に打ち負かされた。アヴァール人の行政地点はバナトにもつくられ、アヴァール人=東ローマ帝国戦争において重要な役割を担った。アヴァール人支配は9世紀のカール大帝遠征が行われるまで続いた。

カルパチア盆地の東部は、数十年後には第一次ブルガリア帝国の一部となった。いまも、アヴァール人とゲピド族の住んでいた考古学的痕跡がここで見られ、9世紀の半ばまで存在が見られた。さらにゲピド族の生き残りはここで長きに渡り生きていたようである。アヴァール人支配はカルパチア盆地への相当な数のスラヴ人移住を意味した。895年、エテルキョスで暮らしていたマジャル族が、東ローマの同盟者として東ローマ=ブルガリア帝国戦争に参戦、ブルガリアを敗退させた。これによって、ブルガリアはマジャル族の定住地を襲っていたペチェネグ族と同盟した。これがマジャル族のカルパチア盆地征服、ハンガリー建国で知られる過程を招いた。これはブルガリア帝国がドナウ川北部領を失う結果となった。バナトはこの時からマジャル族支配下となり、1552年にオスマン帝国テメシュヴァールを行政中心地とするまで続いた。
ハンガリー支配(10世紀初頭-16世紀)

テメシュ川の地域はマジャル族長の土地でなく、そして10世紀半ばから-王国の統治が弱まり-地元豪族がさらに外国支配からの独立を追い求め始めた。その結果カルパチア盆地の東部において、正教会の布教が行われ東ローマの典礼が得られ始めた。これはハンガリー王国の創建と、最後の地元豪族アイトニ(Ajtony)を従属させたイシュトヴァーン1世の祖国統一の努力を停止させることになった。14世紀、バナト地域は南部バナト国境が拡大するオスマン帝国に対する最重要の防御線となったため、他よりも最優先の地域となった。
オスマン帝国支配 (1552年-1716年)

バナトは1552年にオスマン帝国へ併合され、テメシュヴァル州(トルコ語版、英語版)(Eyalet of Teme?var)となった。継続するオスマン軍の襲撃と破壊のため、元々この地で暮らしていたハンガリー人の多くが北部へ逃亡するか殺された。替わりに、コンスタンティノープル総主教が管轄する正教会信徒のセルビア人とヴラフ人が移住してきた(正教会信徒はトルコに忠実ともみられていたため)。16世紀以降、バナト地域は主にラスキア人(セルビア人)とヴラフ人(ルーマニア人)が占めていた。一部の歴史文献によればラスキア(Rascia)、別の文献ではワラキアと称した。1594年、バナトのセルビア人がオスマン支配に対して大規模な反乱を起こした。ルーマニア人もこの反乱に関係した。
ハプスブルク支配テメシュヴァール州

17世紀、バナトの一部がハプスブルク君主国(オーストリア)の一部となった。1716年墺土戦争が勃発するとプリンツ・オイゲンがバナトの残りをオスマン軍から奪い取った。1718年パッサロヴィッツ条約後、テメシュヴァールのバナトの称号を得て、1751年まで軍事境界線下(軍政国境地帯)のハプスブルク君主国直轄領のままにおかれた(軍政国境地帯に住む人々は軍役と引き換えに土地保有の特権を得た、いわば屯田兵であった)。

1751年、女帝マリア・テレジアが軍政から民政へ移行した。テメシュヴァールのバナト県は1778年に廃止された。バナト南部地域は、1871年に境界線が廃止されるまで軍政国境地帯(バナト・クライナ)に含まれたままだった。


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