バナスター・タールトン
Banastre Tarleton
バナスター・タールトン
ジョシュア・レノルズ画
生誕1754年8月21日
イギリス、リヴァプール
死没1833年1月25日(満78歳没)
イギリス、シュロップシャーのレイントワーディン
所属組織イギリス陸軍
軍歴1775年-1781年
最終階級大将
戦闘
アメリカ独立戦争
ワックスホーの虐殺
キャムデンの戦い
カウペンスの戦い
除隊後庶民院議員
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初代准男爵サー・バナスター・タールトン(英: Sir Banastre Tarleton, 1st Baronet、1754年8月21日 - 1833年1月25日)は、イギリス軍の陸軍大将、政治家。バス勲位。
タールトンは恐らくアメリカ独立戦争中の従軍で最も良く記憶されている。ワックスホーの戦いで降伏した大陸軍兵士に発砲したと主張する大陸軍側の宣伝攻撃の中心に据えられた。ロバート・D・バスが1952年に出版した『緑のドラゴン:バナスター・タールトンとメアリー・ロビンソンの生涯』という出版物で、「血塗られたバン」という渾名が付けられ、当時の彼の渾名として今日の大衆文化で使われてきた。
タールトンはロイヤリストやイギリス兵には軽騎兵の傑出した指導者として持て囃され、優勢な敵に遭遇した時でもその戦術能力と決断力を称賛された。その緑の制服は1778年に占領していたニューヨークで結成した植民地部隊ブリティッシュ・リージョンの標準だった。タールトンの騎兵隊は「タールトンの襲撃者」と呼ばれることが多かった。
戦後、タールトンはリヴァプールからイギリス議会議員に選出され、著名なホイッグ党政治家になった。 バナスター・タールトンは1754年、リヴァプールで商人、船主、奴隷貿易業者であり1764年にはリヴァプール市長をしていたジョン・タールトン(1718 - 1773)の7人の子供の4番目として生まれた。父はイギリス領アメリカ植民地との貿易で幅広い繋がりをもっていた[1]。 タールトンは、ロンドンのミドル・テンプルで教育を受け、1771年にオックスフォード大学のカレッジ(en:University College, Oxford 1775年12月、タールトンはアイルランドのコークから志願兵として北アメリカに渡った。アメリカ独立戦争を始める反乱が起こったばかりの時だった。チャールズ・コーンウォリスとともに南部の都市チャールストンを奪う遠征隊の一部として船で向かった[2]。この作戦が失敗した後、ニューヨーク市のウィリアム・ハウ将軍が指揮するイギリス軍本隊に加わった。1776年に収めた功績によって騎兵隊の参謀長の地位を得た。 指揮官ウィリアム・ハーコート大佐の下で、タールトンはニュージャージーの大陸軍チャールズ・リー将軍の動きを探る偵察隊の一部を担った。12月13日の金曜日、タールトンはバスキング・リッジの1軒の家を取り囲み、家を燃やしてしまうと脅かしてまだガウン姿のリー将軍を降伏させた。リーは捕虜としてニューヨークに連れて行かれ、後に捕虜交換で釈放された。 タールトンは、騎兵と軽歩兵の混合部隊であるブリティッシュ・リージョン(またの名をタールトンの襲撃者)の指揮官となった後、1780年の初めにサウスカロライナに転進し、チャールストン占領を頂点とする作戦行動で指揮官ヘンリー・クリントン将軍に大きな貢献を果たした。この作戦は、イギリスに対する支援があると信じる南部植民地に注力してその主権を回復しようというイギリス軍の「南部戦略」の一部だった。 1780年5月29日、タールトンは150騎の騎馬隊を引き連れ、エイブラハム・ビュフォード率いるバージニア地域大陸軍の350名なし380名の分遣隊に追いついた。ビュフォードは降伏を拒み、行軍を続けようとした。しかし多くの犠牲者を出したビュフォードは降伏を告げた。その直後に起こったことは今でも議論の種になっている。アメリカ側の証言では、タールトンが白旗を無視して捕虜を慈悲も無く虐殺したことになっている。結局113名の大陸軍兵が殺され、203名が捕虜になった。捕虜のうちの150名は重傷を負っており、その場に残さざるを得なかった。タールトン部隊の損失は5名が戦死、12名が負傷だった[3]。イギリス軍はこの事件を「ワックスホー・クリークの戦い」と呼び、一方アメリカ側は「ビュフォード虐殺」あるいは「ワックスホーの虐殺」と呼んだ。
生涯
青年時代
アメリカ独立戦争
チャールストン占領
ワックスホーの戦い
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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