この項目では、監督経験がある元プロ野球選手について説明しています。同名のメジャーリーグ投手については「バド・ブラック (1932年生の投手)
」をご覧ください。バド・ブラック
Bud Blackコロラド・ロッキーズ 監督 #10
パドレスでの監督時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ
生年月日 (1957-06-30) 1957年6月30日(61歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
188 lb =約85.3 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1979年 MLBドラフト17巡目(全体417位)でシアトル・マリナーズから指名
初出場1981年9月5日
最終出場1995年7月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
マーク・モリス高等学校(英語版)
ローワー・コロンビア州立短期大学(英語版)
サンディエゴ州立大学
シアトル・マリナーズ (1981)
カンザスシティ・ロイヤルズ (1982 - 1988)
クリーブランド・インディアンス (1988 - 1990)
トロント・ブルージェイズ (1990)
サンフランシスコ・ジャイアンツ (1991 - 1994)
クリーブランド・インディアンス (1995)
監督・コーチ歴
アナハイム・エンゼルス
ロサンゼルス・エンゼルス (2000 - 2006)
サンディエゴ・パドレス (2007 - 2015)
コロラド・ロッキーズ (2017 - )
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バド・ブラック(Harry Ralston "Bud" Black , 1957年6月30日 - )はアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ出身のプロ野球監督、元プロ野球選手(投手)。左投左打。
過去40年間で[要出典]現役時代に100勝以上あげた投手出身の監督は、ボブ・レモン(通算207勝)、ラリー・ダーカー(通算139勝)に次ぐ3人目である[1]。 南カリフォルニアで育ったブラックはワシントン州のローワー・コロンビア州立短期大学 故郷カリフォルニアのサンディエゴ州立大学編入後の1979年のMLBドラフト17巡目(全体417位)でシアトル・マリナーズからで指名され入団、プロとしてのキャリアをスタートさせる。この年は傘下のA-級ビリンガム・マリナーズ 1982年3月2日、前年10月に行ったトレードの後日交換選手としてカンザスシティ・ロイヤルズに移籍する。開幕はメジャーで迎えたが、敗戦処理で1イニング投げた後に傘下のAAA級オマハ・ロイヤルズへ降格。しかしそこで4試合に先発し、防御率2.48・3完投・1完封の好成績で4月18日に昇格。先発・中継ぎで22試合に登板した。1983年は開幕当初はAAA級オマハであったが、5月25日に昇格後は先発ローテーションを守り初の2ケタ勝利をあげる。1984年は自己最多となる17勝をあげ、エースとして活躍、チームのア・リーグ西地区優勝に貢献した。先発陣の中では防御率、勝ち星、投球回、奪三振でチーム1位であった[2]。1985年は15敗と負けが先行してしまったが、チームはア・リーグ西地区連続優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは3試合に登板し、防御率1.69とトロント・ブルージェイズを完璧におさえ、チームは4勝3敗でリーグ優勝を果たす。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは2試合に登板し、防御率5.06と結果は残せなかったが、チームは4勝3敗で勝利し1969年の球団創設以来初のワールドシリーズ制覇となった。1986年は開幕から先発で打ち込まれたことと、ダン・クイゼンベリーの不調などもあり、中継ぎ・抑えでの登板が主となった。1987年は先発・中継ぎ、1988年は中継ぎで投げていた。 1988年6月3日にパット・タブラー
目次
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入りとマリナーズ時代
1.3 ロイヤルズ時代
1.4 インディアンス時代
1.5 ブルージェイズ時代
1.6 ジャイアンツ時代
1.7 現役引退後
2 プレースタイル
3 人物・エピソード
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 年度別監督成績 (MLB)
4.3 背番号
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴
プロ入り前
プロ入りとマリナーズ時代
ロイヤルズ時代
インディアンス時代