バトンルージュの戦い_(1862年)
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バトンルージュの戦い
Battle of Baton Rouge
南北戦争

「ハーパーズ・ウィークリー」に掲載された戦闘の線画凸版、1862年

時1862年8月5日 (1862-08-05)
場所ルイジアナ州バトンルージュ
結果北軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
トマス・ウィリアムズ†
トマス・W・ケイヒルジョン・ブレッキンリッジ
チャールズ・W・リード
戦力
2,500名2,600名
被害者数
戦死、負傷、不明合わせて371名戦死、負傷、不明合わせて478名
バトンルージュの戦い詳細、1862年8月5日[1]

バトンルージュの戦い(: Battle of Baton Rouge)は、南北戦争1862年8月5日に、ルイジアナ州イーストバトンルージュ郡で起きた海陸の戦闘である。この戦闘に北軍が勝利することで、南軍ルイジアナ州を取り戻そうとする動きを止めた[2]
背景

1862年4月25日、デヴィッド・ファラガット提督指揮下の北軍海軍のためにニューオーリンズ市が陥落する前日、南軍ルイジアナ州政府は州都バトンルージュを放棄する決断をし、先ずオペルーサスに、続いてシュリーブポートに移動した。その地域にある綿花は全て、北軍の手に落ちないよう火を点けられた。5月9日、北軍砲艦USSイロコイの海軍指揮官ジェイムズ・S・パーマーがバトンルージュの桟橋に上陸し、抵抗を受けずにペンタゴン兵舎と武器庫を占領した。その2週間後、ゲリラの1隊が海軍士官を載せたボートを攻撃した。その報復のためにファラガットの旗艦USSハートフォードが町を砲撃し、市民に犠牲者を出し、セントジョセフ教会など建物を損傷した。5月29日、北軍のトマス・ウィリアムズ准将が歩兵6個連隊、砲兵2個大隊、騎兵1個中隊を率いて到着し、バトンルージュの町の占領を始めた。

夏の間、南軍のミシシッピ川東地区軍司令官アール・ヴァン・ドーン少将が、北軍によるヴィックスバーグ砲撃に抵抗していた。南軍の鉄装甲衝角艦CSSアーカンソーがヤズー川を下り、不用意な北軍艦隊の傍を通り過ぎるときに損傷を与え、ヴィックスバーグに停泊した。ヴァン・ドーンはバトンルージュの回復を望んだ。バトンルージュを取り戻すことは北軍をルイジアナ州から追い出すために重要なことであり、さらにはレッド川沿いの北軍が占領した地帯に攻撃を掛けることも可能になり、北軍の支配するニューオーリンズ市に脅威を与えられると考えられた。

1862年7月27日、ジョン・ブレッキンリッジ少将が5,000名の兵士を率いてヴィックスバーグからキャンプ・ムーアに向かった。そのキャンプではダニエル・ラッグルス准将が率いる小さな歩兵師団が合流した。これと同時にアーカンソーがミシシッピ川を降り、バトンルージュ近くで北軍艦船との交戦を目指した。陸兵は十分な量の装備と物資があり、食も足りていた。ウィリアムズ将軍は、7月28日にこの部隊がキャンプ・ムーアを出発したという知らせを受け取った。8月4日、敵軍が今にも到着するという情報を受け取った後、北軍はバトンルージュ郊外に陣を布いた。しかし北軍兵は経験が足らず、バトンルージュに来る前に僅か2週間の訓練をされただけだった。さらに、重要性が上だと考えられたニューオーリンズに物資が送られたので、バトンルージュの物資は乏しかった。
戦闘

ブレッキンリッジは8月4日までにバトンルージュの東10マイル (16 km) にあるコミット川まで移動し、夜の間にさらに接近させた。北軍の哨兵に発見されていたので、急襲の要素は無くなっていた。それにも拘わらず、8月5日夜明けに攻撃が始められた。

北軍はバトンルージュの中央にいたのに対し、南軍は市の北で2個師団が戦列を作った。フロリダ通り周辺で戦闘が起こり、町全体で南軍が北軍を押し始めた。マグノリア墓地周辺では特に激しい戦闘になった。北軍の指揮官トマス・ウィリアムズ准将が戦闘中に戦死し、トマス・W・ケイヒル大佐が指揮を引き継いだ。


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