バトゥ
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この項目では、人物について説明しています。インドネシアの都市については「バトゥ (インドネシア)」をご覧ください。

バトゥ
????
抜都
ジョチ・ウルス第2代ハン
集史』パリ本、ジョチ・ハン紀のバトゥの条より)
在位1225年 - 1256年
別号シャーツァーリ

出生1207年
モンゴル高原
死去1256年(48歳)
サライ
配偶者ボラクチン・ハトゥン
 ベキ・ハトゥン
子女サルタク
トクカン
エブゲン
ウラクチ
家名ボルジギン氏
父親ジョチ
母親オキ・フジン
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バトゥ(ペルシア語 : ???? B?t?、1207年 - 1256年)は、ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。カナ表記ではバツ、バト。
生涯

1224年、父のジョチの死によりジョチ家の当主となる。バトゥの異母兄のオルダは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}病弱がちだったため[要出典]、次男で母の家柄もよかったバトゥが当主となった。オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト氏族の出自であったが、おそらくバトゥの家督継承には彼の母がコンギラト部族の宗主のアルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係していると思われる。
バトゥの西方遠征

1236年春2月、モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・カンの四男のトルイの長男であるモンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征した。

元朝秘史』によれば、各王家の長子クラスの皇子たち、また領民を持っていない皇子たち、さらに万(戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤンたち、多くの人は誰であっても己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。王女たち、(その)婿どのたちは同じようにして己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。

とあって、帝国全土の王侯・部衆の長子たち、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なものだった。バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、グユクはそのもとで皇帝オゴデイの本営軍(qol)から選抜された部隊を統括するよう勅命によって定められていたことが続けて述べられており、加えて『集史』によれば、チンギス・カンの功臣筆頭のボオルチュの世嗣ボロルタイがこのバトゥの本営・中軍(qol)の宿将としてこれを率いていた。

この遠征では前述のとおり各王家の当主クラスの皇子たちが出征した。すなわち、

ジョチ家からは総司令バトゥを筆頭に、その異母兄のオルダと異母弟のベルケ、シバン、タングト。

チャガタイ家からはチャガタイの長男のモエトゥケンの次男のブリ、その叔父にあたるチャガタイの六男のバイダル

オゴデイ家からは長男のグユク、その末弟のカダアン・オグル

トルイ家からは長男のモンケと七男のボチュク

そしてチンギス・カンとその次席皇后クラン・フジンとの子であるコルゲン

などである。この時バトゥが率いた兵力は、4個千人隊(約1万人)だったと推定される。遠征軍の征服目標はジョチ家の所領西方の諸族、アスブルガールキプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。
ブルガール、キプチャク方面の征服詳細は「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」を参照

遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジョチ家のオルドがあったイリ方面にまで到着した。1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまずアス人とブルガール人の征服に取り掛かった。宿将スブテイはヴォルガ・ブルガール地方に入るとブルガールを攻撃。その首長バヤン、ジクらが一度遠征軍のモンゴル王侯らに帰順を表明してきたが、まもなく離反しスブタイがこれらの服属工作を任され、これを達成した。

1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施し、左翼をモンケに任せた。モンケの左翼軍はカスピ海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。遠征軍はこれによりカスピ海沿岸地域で夏営した。この時期にカスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが帰順・征服された。
ルーシ諸国の征服詳細は「モンゴルのルーシ侵攻」を参照

1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン旧リャザン)、コロムナが劫略された。1238年に入り2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国アレクサンドル・ネフスキーガーリチ公ダニールらの帰順を受けている。この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略されたと見られている。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。このころ総司令官バトゥはグユク、ブリらと論功行賞などで激しく対立。その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケは1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発した。

1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。またモンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。
ハンガリー、ポーランド、中欧の征服モヒの戦い』、ハンガリー国王ベーラ4世を追うカダアン(英語版) (『彩色年代記 Chronicum Pictum 』より)レグニツァの戦い』、左がモンゴル軍、右がポーランド・チュートン騎士団連合軍(14世紀に書かれた聖人伝『シレジアの聖ヘドウィッヒen:Hedwig of Andechsの伝説』より)詳細は「モンゴルのポーランド侵攻」を参照


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