バディ・ロジャース
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バディ・ロジャース

プロフィール
リングネーム"ネイチャー・ボーイ" バディ・ロジャース
本名ハーマン・ロード・ジュニア
ニックネームアトミック・ブロンド
ネイチャー・ボーイ
野生児
身長183cm
体重107kg(全盛時)
誕生日1921年2月20日
死亡日 (1992-06-26) 1992年6月26日(71歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ニュージャージー州
カムデン郡カムデン
デビュー1939年
引退1978年
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バディ・ロジャース("Nature Boy" Buddy Rogers、1921年2月20日 - 1992年6月26日)は、アメリカ合衆国プロレスラーニュージャージー州カムデン出身[1]

出生時の本名はハーマン・ロード(Herman Gustav Rohde Jr.)であったが、後年にリングネームのバディ・ロジャースを正式な名前とする法的手続きを取った。ニックネームは「ネイチャー・ボーイ」。
来歴

少年時代からYMCAレスリングを学び、17歳でデール・ブラザース・サーカスに入団した[1]。本名ハーマン・ロードの名前でデビューしたが、デビュー年は1939年1941年の二つの説がある[1]

その後、リングネームをバディ・ロジャースに変えるが、これは当時アメリカで流行した三文SF小説の登場人物をアダプトしている[1]。ニックネームの「ネイチャー・ボーイ」は日本では「野生児」と誤訳されているが、このニックネームはナット・キング・コールの同名の歌から取られたものであり、あえて言えばいわゆる「自然児」。どちらもプロデュースしたのは、プロモーターのジャック・フェファーであった[1]

「ダーティー・チャンプ」の元祖となったヒール選手である。決め技の足4の字固め、 ロジャース・ストラートと呼ばれる気取った歩き方[2]レフェリーの陰で反則を繰り返す小ずるい動き、ピンチに陥ると Oh, No! と許しを乞うたり[2]、わざと反則負けを食らって王座を防衛したりなど、ニックネームの「ネイチャー・ボーイ」も含め、そのダーティー・チャンプとしての所作はリック・フレアーに受け継がれている。また、常に白タオルを持って入場するスタイルは、同じくダーティー・チャンプとして活躍したニック・ボックウィンクルを経て、後にカート・ヘニングが受け継いだ。金髪の伊達男系ヒールというキャラクターにおいては、彼ら以前にもジャッキー・ファーゴレイ・スティーブンスバディ・コルトなどがロジャースのギミックを継承しており、バリアント・ブラザーズハリウッド・ブロンズなどのタッグチームもその影響下にあった。

リングを降りても「悪役」だったようで、カール・ゴッチによる「襲撃事件」(長くゴッチの襲撃説が広まっていたが、ゴッチと口論になった後控え室からロジャースが出ようとした際、ゴッチに付き添っていたビル・ミラーがドアを蹴ってロジャースの腕が挟まれて負傷したというのが真相といわれている)など、ダーティーなイメージが付きまとった。このエピソードはプロレススーパースター列伝ジャイアント台風で脚色され、ロジャースがあたかも「実力のないレスラー」であるかのように描写されているが、全盛時に日本人で唯一対戦経験(1962年3月9日、ロジャースのNWA王座に初挑戦以来、数度にわたり挑戦)のあるジャイアント馬場[2]、自分がアメリカ修行時代に見た中では人気と実力を兼ね備えた最高のレスラーと語っている。また、ビンス・マクマホン・ジュニアも最も憧れた選手と回想している。実際に手を合わせた天龍源一郎は「ロジャースの使う技は本当のレスリングの技で、本気で掛けてきた」「始めと終わりはショーマンでも、試合の中身はシビアでガチガチ」とシュートの技術があったと述懐している。

1940年代後半からは数々のタイトルを取り、全米一の観客動員力を誇るスーパースターであったが、NWA内部の権力闘争の影響でNWA王座に就くのは遅く、1961年6月30日、シカゴコミスキー・パークパット・オコーナーを破りようやく第43代NWA世界ヘビー級王者となる[3]1963年1月ルー・テーズに敗れて王座転落後、自らのボスであったビンス・マクマホン・シニアWWWF設立に協力し初代WWWF世界ヘビー級王者となったが[4][5]、同年5月ブルーノ・サンマルチノに48秒で秒殺されて王座を失い、そのまま選手としては引退。1978年に一時期復帰し若手時代のリック・フレアーと対戦(フレアーの勝利)、「ネイチャーボーイ継承の儀式」を行った。1980年代にはWWFジミー・スヌーカマネージャーとしてプロレスの現場に復帰している。WWFではインタビューコーナー "Rogers' Corner" のホストも担当した。

1992年6月26日、スーパーマーケットで床に落ちていたクリームチーズに足を滑らせ、頭部を強打して死去。1994年に、その生前の功績を称えられWWF殿堂入りを果たした(インダクターはブレット・ハート)。

オコーナーを破って世界チャンピオンになった試合は当時のプロレス観客動員新記録となる38,622人を集め、興行収益も当時のプロスポーツ興行のゲート収入記録を大きく塗り替える17万5000ドルであった[2]。インタビューにおいてロジャースは生涯のベストバウトと語っている。この試合では1本目ロジャース(カウンターのダブル・ブーツからフォール)、2本目オコーナー(オコーナー・ロールと呼ばれる後方回転エビ固め)、3本目ロジャース(オコーナーのドロップキック自爆からフォール)となっている[2]。この試合は現在YouTubeで、試合後の王座奪取インタビューを含め見ることができる。
エピソード

足4の字固めは、他のレスラーが使っていたフィギュア・フォー・ボディシザースという技をヒントにロジャースが考案した。

アトミック・ドロップもロジャースのオリジナル技。技の名称は、第二次世界大戦頃に用いていた自身のニック・ネーム "アトミック・ブロンド" から取られたという。
※上記は『月刊ゴング』1979年6月号掲載のバディ・ロジャース・インタビューに基づいたもの

力道山はロジャースとアントニオ・ロッカの2人を何としても来日させたかったが、招聘することはできなかった。現役当時は両者共アメリカマット界の超人気レスラーだったため、日本に行く時間的余裕がなかったことが理由とされている。後にロッカはアントニオ猪木ルー・テーズNWFヘビー級選手権のレフェリーとして1975年10月に来日しているが、ロジャースは引退後も来日することが無く、生涯未来日のまま亡くなっている。

ジャイアント馬場が「史上最高のレスラー」「対戦しているうちに、彼のファンになった」と絶賛していた。


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