バッファロー・セイバーズ
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バッファロー・セイバーズ
Buffalo Sabres
カンファレンス
イースタン・カンファレンス
ディビジョンアトランティック
創設年1970年
歴代チーム名バッファロー・セイバーズ
(1970 - )
ホームアリーナキーバンク・センター

ホームタウン アメリカ合衆国
ニューヨーク州バッファロー
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チームカラーロイヤルブルー、ゴールド、白
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メディア
オーナーテリー・ペグラ
GMケヴィン・アダムス
ヘッドコーチドン・グラナート
キャプテンカイル・オクポソ
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (0回)
なし
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (3回)
1974-75・1979-80[§ 1]・1998-99
ディビジョン優勝 (6回)
1974-75・1979-80・1980-81・1996-97
2006-07・2009-10
プレジデンツトロフィー (1回)
2006-07

バッファロー・セイバーズ (Buffalo Sabres) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグ (NHL) 所属のプロアイスホッケーチームである。

2024年時点のNHLで、プレーオフ進出[§ 2]およびプレーオフ1回戦突破から最も遠ざかっているチームである。
歴史
チーム創設から1980-1981シーズンまで

バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、ジルベール・ペロー (Gilbert Perreault) を獲得した[1]。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった[1]

1971-72シーズンには、リック・マーティンをドラフトで獲得、シーズン終盤には、ピッツバーグ・ペンギンズからトレードでルネ・ロベールを獲得、ペロー、マルタン、ロベールのフランス系カナダ人選手で組んだフォワードラインは、ファンから同名の映画にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョン6位であった[1]。詳細は「en:The French Connection (ice hockey)」を参照

1972-73シーズンには、ドラフトでディフェンスマンのジム・ショーンフェルド(Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランのティム・ホートン(Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した[2]。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]

1973-74シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーのロジャー・クロージャー(Roger Crozier)も膵炎でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日のトロント・メープルリーフス戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取ったデ・トマソ・パンテーラで事故を起こして亡くなった[2]。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった[1]

1974-75のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフではシカゴ・ブラックホークスを4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。フィラデルフィア・フライヤーズとのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーのバーニー・ペアレント (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた[1]

1975-76シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連のクリリヤ・ソビエトフとのエキシビションゲーム(スーパシリーズ)では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、セントルイス・ブルースを3勝2敗で破った後、準々決勝でニューヨーク・アイランダーズと対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた[1]。この年、加入したダニー・ゲア(Danny Gare)が50ゴールを挙げた。

1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、ミネソタ・ノーススターズを一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた[1]

1977-78シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・レンジャースを破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた[1]

1978-79シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーとヘッドコーチが解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた[1]

1979-80シーズン、前シーズンまでモントリオール・カナディアンズを率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していたスコッティ・ボウマンがヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールがコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)にトレードされた。チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフではバンクーバー・カナックスを3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた[1]

1980-81シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、ロジャー・ニールソン(Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。


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