この項目では、音楽家(クラシック)の家系について説明しています。
IOC(国際オリンピック)関連については「トーマス・バッハ」をご覧ください。
その他の用法については「バッハ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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バッハ家またバッハ一族 (ドイツ語: Familie Bach)は、16世紀後半から18世紀までドイツに続いた、ヨハン・ゼバスティアン・バッハをはじめとする重要な音楽家の家系である。 バッハ一族の家系図の資料として『音楽家系バッハ一族の起源』と題した年代記があり、これはヨハン・ゼバスティアン・バッハによって1735年に作成され、その後次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって補筆された[1]。この年代記では、J.S.バッハ本人を含む53人の男子について番号付けで記してある[1][注釈 1]。 これによると、一族の祖であるファイト・バッハは元々ハンガリー[注釈 2]に在住していたが、ルター派の信仰であったためにそこから逃げなければならず、その後テューリンゲン地方ゴーダ近郊のヴェヒマールに安寧の地を見つけ、そこに定住した[1]。ファイト・バッハはテューリンゲンに移る前から白パン焼き職人で生計を立てており、移住後も職業を続けたが、粉を挽くかたわらでツィトリンゲン(ツィターの一種)の演奏を嗜み、これがバッハ一家が音楽に携わるきっかけとなったとしている[1][注釈 3]。ファイト・バッハが逃げた理由として、シュマルカルデン戦争中の反宗教改革派によるプロテスタント派の追放が有力であるとされている[1]。 しかし、一族で最初の職業音楽家はファイトの息子ヨハネス・バッハで、ヨハネスは家業のパン屋を継ぎながら、町楽師としても研鑽を重ねた[2]。このヨハネス・バッハの3人の息子からバッハ家の4つの分家、「主要家系」「エアフルト家系」「アルンシュタット家系」「フランケン家系」が生じた[2]。「主要家系」は、ヨハネスの次男クリストフ(J.S.バッハの祖父)から、「エアフルト家系」は長男ヨハンから、「アルンシュタット家系」は末息子ハインリヒから、「フランケン家系」は次男クリストフの息子、アンブロジウス(J.S.バッハの父)の兄ゲオルク・クリストフから、それぞれ枝分かれしている[2]。「エアフルト家系」と「アルンシュタット家系」はそれぞれテューリンゲン地方の地名にちなんでいるが、「フランケン家系」に関しては、ゲオルク・クリストフがフランケン地方のシュヴァインフルトでカントルを務めたことに由来している[2]。 こうして、ヴェヒマールをはじめとしたドイツ中部のアイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、マイニンゲンなどの各都市で、町楽師、オルガニスト、カントルといった職業に就くことで、バッハ一族は繁栄を遂げた[2]。その結果、16世紀末には、中部ドイツでは「バッハ」という言葉は「音楽家」の代名詞としても扱われるようになったとされている[2]。
概要