バチュカ、あるいはバーチュカ(セルビア語:Бачка / Ba?ka ([ba?t?ka?])、ハンガリー語:Bacska (ハンガリー語発音: [?ba?t?k?])、クロアチア語:Ba?ka、ブニェヴァツ語(英語版):Бачка / Ba?ka、スロバキア語:Ba?ka、パンノニア・ルシン語:Бачка、ドイツ語:Batschka)は、中央ヨーロッパ・パンノニア平原の一角を占める地域の名称であり、大部分はセルビアとハンガリーの領土となっている。その領域は西のドナウ川と東のティサ川に挟まれ、両者が合流するティテル(英語版)付近が南端となる。
バチュカ地方の大半はセルビア領のヴォイヴォディナ自治州に属している。その州都・ノヴィ・サドはドナウ川の両岸にまたがっており、左岸地区(ノヴィ・サド区)はバチュカ地方、右岸地区(ペトロヴァラディン区)はスレム地方に含まれる。また、バチュカ地方の北部はハンガリー領のバーチ・キシュクン県に属している。バチュカ地方に含まれるドナウ川左岸の一部の無人の土地は、セルビアとクロアチアが領土係争中であり、旧ユーゴスラビア和平委員会調停委員会(バダンテール調停委員会)の意見ではクロアチア領とされたが、セルビアが実効支配している。 「バチュカ」は典型的なスラヴ語の地名であり、この地にあった歴史上の街・バチュ(Ba?)に属する土地を意味する接尾辞(-ka)をつけたものである[1]。同様の語尾を持った地名はクロアチア(Hrvatska)、ポーランド(Polska)のように、スラヴ語圏では一般的に見られるものである。「バチュ」の語源は不明であり、中世のヴラフ人、スラヴ人およびマジャル人の文献に記録されている。バチュの語源については古代バルカン諸語[2]、ルーマニア語、スラヴ語[3]、テュルク諸語[4] などの説がある。 この地域を表す呼称は、バチュ城の廷吏によって使われ始めたものであり、バチュの語源は古テュルク語の尊称バヤ(baya)に由来するのではないかとする説がある[5][6]。 歴史上、バチュカ地方はダキア、ヤジゲ王国 バチュカには新石器時代より人が居住していた。インド・ヨーロッパ語族に属する民族集団は、紀元前4200年、同3300年、同2800年の3回の流入によってバチュカに定着した。この地の最古の住民はイリュリア人に属する部族であったと考えられている。後に、ダキア人やケルト人、サルマタイ人(ヤジゲ族
呼称
歴史
古代・中世
現代のセルビア人の祖先にあたるスラヴ人の一派がバチュカに移住したのは6世紀から7世紀ごろにかけてであり[7][8][9]、その後スラヴ人たちはバルカン半島各地へと進出していった。9世紀にはバチュカは第一次ブルガリア帝国の一部となり、ブルガリアのヴォイヴォダ・サラン(英語版)がこの地を支配し、彼の侯国の首都はティテルに置かれた。10世紀初頭には、サランの侯国はハンガリーの支配下となった。バチュの要塞と街
11世紀、中世ハンガリー王国の統治下でバチェンシス県(Bacsensis)が置かれ、バチュ(英語版)(Bacs / Ba?)がその県都に定められた。記録上最古のバチェンシスの知事は1074年のヴィド(Vid)というスラヴ語の名前を持った人物であった。この時代、バチュカにはスラヴ人もマジャル人も居住していた。セルビアの歴史家ミレンコ・パリッチ(Milenko Pali?)によると、ヴィドは他の2人のセルビア人、イリヤ(Ilija)およびラドヴァン(Radovan)とともに、11世紀末のハンガリー王国における継承争いに加わったと言われている[10]。
1526年にハンガリー王国がオスマン帝国に敗北すると、バチュカは1527年までの間、現在のヴォイヴォディナ一帯を占めるセルビア人の独立国の一部となった[11]。この国を統治したのはヨヴァン・ネナド(Jovan Nenad)であり、首都はスボティツァに置かれた。ヨヴァン・ネナドが殺害されると彼の侯国は崩壊し、バチュカは一時的にハンガリーの支配下となったが、すぐにオスマン帝国の所領となった。
近世(県)の一部とされた。セゲディン県ではセルビア人が住民の絶対多数を占め[12]、その他にイスラム教徒などがいた。1699年、バチュカはハプスブルク君主国の所領となった。バチュカ地方の西部にバチェンシス県が設置され、その他の地域は軍政国境地帯のティサ-ムレシュ管区に編入された。1751年にこの地域で軍政国境地帯が廃止されると、同地帯に属していたバチュカ東部もバチェンシス県に編入された。その後もバチュカ地方の一部・シャイカシュカ(英語版)は軍政国境地帯の一部とされていたが、1873年には同地域も民政移管された。
オーストリア帝国による1715年 - 1720年の国勢調査によると、この地域の住民の大部分(97.6%)はセルビア人、ブニェヴァツ人、ショカツ人(?okci)によって占められ(1715年 がこれらの民族に属していた[13][14][15]。住民のうちハンガリー人(マジャル人は1.9%にあたる530人、ドイツ人は0.5%に過ぎなかった[13]。長く続いたオスマン帝国との戦争の中に疲弊し、人口密度の低い地域であったが、18世紀にハプスブルク帝国はこの地域への植民を強化した。かつてこの地に住んでいたイスラム教徒はほぼすべてがオスマン帝国領へ脱出するか追放され、バチュカには残っていなかった[13]。新たにこの地に入植した住民の多くは、オスマン帝国領から移住してきたセルビア人や、マジャル人、ドイツ人などであった。ドイツ人の多くはシュヴァーベン地方から移住したため、彼らはドナウ・シュヴァーベン人(英語版)と呼ばれた。一部のドイツ人はオーストリア、バイエルン、アルザスなどからも移住した。