バスター・キートン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "バスター・キートン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年9月)

バスター・キートン
Buster Keaton

生年月日 (1895-10-04) 1895年10月4日
没年月日 (1966-02-01) 1966年2月1日(70歳没)
出生地 アメリカ合衆国
カンザス州 ピクア
死没地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ウッドランドヒル
職業俳優映画監督脚本家
ジャンル舞台映画
活動期間1899年 - 1966年
配偶者ナタリー・タルマッジ1921年 - 1932年
メイ・スクリヴン(1933年 - 1936年
エレノア・キートン(1940年 - 1966年

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1959年
その他の賞

テンプレートを表示

バスター・キートン(: Buster Keaton, 1895年10月4日 - 1966年2月1日)は、アメリカ合衆国喜劇俳優映画監督脚本家チャールズ・チャップリンハロルド・ロイドと並び「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。
プロフィール
ヴォードヴィル『キートン3人組』の寸劇。左の子供がキートン(1901年)

カンザス州ピクア(英語版)にて、父ジョー・キートン(英語版)に、母マイラ・キートン(英語版)との間にジョセフ・フランク・キートン(Joseph Frank Keaton)として生まれた。

両親とも舞台芸人で、キートンも1899年にまだ4歳の頃、親子による「キートン3人組 (The Three Keatons) 」として初舞台に立ち、各地でヴォードヴィルの巡業を続けた。父が、小さい彼の身体を逆さに持ち上げてぶんぶん振り回す「人間モップ」という、荒っぽいギャグを売り物とし、泣き顔一つせず演じていた事は有名な話である。後に弟ハリー(愛称はジングルズ)と妹ルイーズを加えた5人組としても人気を博したが、後にまたバスターと両親の3人組に戻っている。イギリスなどでの海外巡業も経験した。キートンが映画界に進出する直前まで活動が続き、その時点で解散している。

芸名の由来についてはこの家族舞台時代、突風に飛ばされたにも係わらず(自伝でキートンは「階段から転落説」を語っている)、全く泣かなかったのを見た、高名な手品師のハリー・フーディーニに「My,What a Buster!(おやおや、なんて頑丈なんだ!)」と言われた[1]処から、すぐそばにいた父によって「バスター・キートン」の名が誕生したといわれる。

ジョーは映画という媒体を評価していなかったとされているが、多数の映画に出演し[2]、家族で共演する作品もいくつか存在する。『デブ君の勇士』 (A Country Hero) では息子との初共演を果たしているが、フィルムは現存していない(理由は後述)。マイラ、ハリー、ルイーズにも映画出演経歴があり、家族全員が勢揃いした作品こそ存在しないが、『キートンの西部相撲』 (Palooka from Paducah) や『列車の愛の巣』 (Love Nest on Wheels) などで共演が確認できる。
映画( - 1920年代)

1917年ニューヨークへ渡り、当時マック・セネットキーストン・スタジオで大人気を得、自らのプロダクションを設立したロスコー・アーバックルの誘いを受けて映画界入りを果たした。映画初出演作品は『ファッティとキートンのおかしな肉屋』 (The Butcher Boy)(外部リンク"The Butcher Boy - Internet Archive"参照) だが、キートンが新人ながら決して短くない出演時間を、1度も撮り直しせず撮影を終えた。その後アーバックル主演映画に、立て続けに脇役として出演した。出征中のキートン(1918年)

1918年には第一次世界大戦による徴兵で、一時映画出演から離れた。その際耳を負傷したが、回復はしている。

体を張りながらも無表情で一途な役柄を特徴としたことから、「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」、他に「死人の無表情」「すっぱい顔」「凍り付いた顔」「悲劇的なマスク」などと呼ばれた。アーバックル主演映画に出演していた頃、このキャラクターは定まっておらず、笑顔や泣き顔、更には激怒した顔など、豊かな表情を見受けることができる。無表情が定着したのは独立後で、チャップリンの撮影施設を買い取り、キートン撮影所を設立した時期と重なる。

1920年長編『馬鹿息子』(The Saphead)に主演する。

初単独監督作品は1920年に撮影された『キートンのハイ・サイン』 (The High Sign) であるが、キートン本人が気に入らず公開が見送られた。同年、監督作品である『文化生活一週間(キートンのマイホーム)』(One Week) が公開されている。その後『キートンの電気館』 (The Electric House) の撮影中、キートンはエスカレーターに足を挿まれ骨折し、撮影中止の事態に陥ってしまった際、埋め合わせとして『ハイ・サイン』が公開された。『電気館』は再度の撮影の後、1922年に公開されている。こうして1920年代を中心に、大人気の映画俳優となった。『キートンの大列車強盗』

1923年まで18本の短編を撮影後、1923年から1928年までは自らの撮影所で、第1作『キートンの恋愛三代記』 (The Three Ages) から10作目である『キートンの蒸気船』 (Steamboat Bill Jr.) まで、長編作品10本を製作した。これらはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下MGM)やユナイテッド・アーティスツにより配給された。

キートンの探偵学入門』 (Sherlock, Jr.) では危険なシーンの撮影のおり、給水塔の水で叩きつけられて汽車の上からレールに転落。首の骨を折ったにもかかわらず、気がつかずに撮影続行。一年半後偶然に骨折の痕が見つかったが、その時には既に完治していたという武勇伝が残されている。本人は「頭痛が続く」しか自覚がなかったという。

1928年には自身の撮影所を手放し、当時すでに多くのスターを抱え込む大手映画製作会社、MGMと契約した。だがキートンは次第に、MGMでの映画製作システムに対応できなくなってしまう。移籍後は主演作品でも脚本を書くことはおろか、監督を務めることさえ激減したため、単なる間抜けな主人公によるコメディ作品というイメージが強くなった。後にキートンが自伝でも過ちとして語っているように、MGMでの時代は転機を迎えた時期だといえる。それでも興行的には成功を収めている作品も存在し、特に1928年に公開された『キートンのカメラマン』 (The Cameraman) は、その年のMGM作品でも抜群の興行成績を記録した。
映画(1930年代 - )「ポークパイ帽」を被ったキートン(1939年)

1933年までMGMで映画を撮り続けたが、徐々に仕事は衰退した。衰退の原因が今日では、サイレント映画の衰退、および代わりに台頭するようになったトーキー技術において、キートンのハスキーボイスがそれとマッチしないと評されるところが多い。初トーキー作品は 1930年の『キートンのエキストラ(英語版)』だが、この作品は、興行的に大成功を収めており、ヴォードヴィル時代に鍛え上げられた、ダンスと歌声を披露しているほどである。朗々たる美声とは言いがたいが、洒落た感じのよい歌声であり、決して悪声ではない。

他に衰退の原因として考えられている点が、MGMの分業方式・スター方式が合わず、さらに今まで一緒だったチームメンバーが解体してしまった事などである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:130 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef