バスケットボール男子アメリカ合衆国代表
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 バスケットボール男子アメリカ合衆国代表
国または地域 アメリカ合衆国
協会USAバスケットボール
ヘッドコーチ ジム・ボイレン
FIBAランキング2位(2022年11月18日版)[1]
オリンピック
出場回数18回
初出場1936 ベルリン
最高成績金メダル (1936, 1948, 1952, 1956, 1960, 1964, 1968, 1976, 1984, 1992, 1996, 2000, 2008, 2012, 2016, 2020)
ワールドカップ (男子) / (女子)
出場回数17回
初出場1950 世界選手権
最高成績金メダル(1954, 1986, 1994, 2010, 2014)
アメリカップ
最高成績優勝
ユニフォーム

ホームアウェイ

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バスケットボール男子アメリカ合衆国代表(United States men's national basketball team)は、オリンピックなどの国際大会に参加するアメリカ男子バスケットボールのナショナルチーム。NBAプレイヤーで固めたチームはドリームチームと呼ばれる。
概要

1992年バルセロナオリンピックでは初めてプロ選手が参加しており、マイケル・ジョーダンマジック・ジョンソンラリー・バードら歴史的な名選手を擁するこのチームは、各試合に大差で勝利し、金メダルを獲得。NBA人気を国際的に高める効果ももたらした。以降、オリンピックを含む国際的なバスケットボール大会にアメリカは「ドリームチーム」を送り込み優勝を重ねるが、1990年代末よりスター選手の不出場や他国代表の成長により、強さに陰りが見えるようになる。そして、2004年アテネオリンピックでは、遂に金メダルを逃すこととなった。2022年11月18日に発表されたFIBAランキングにてスペイン代表に抜かれトップから陥落した[2]
ドリームチーム前史
プロ選手出場が解禁されるまで

1936年ベルリンオリンピックでバスケットボールが公式種目として採用されて以降、男子アメリカ代表は4つの例外を除いて全ての大会で優勝してきた。一つは1972年ミュンヘンオリンピック、次は西側諸国がボイコットした1980年モスクワオリンピック1988年ソウルオリンピック、もう一つは2004年のアテネオリンピックである。アメリカが出場しなかったモスクワ五輪を除き、アメリカが敗れたのはミュンヘン五輪とソウル五輪、アテネ五輪のみだった。

1972年のミュンヘン五輪は東西冷戦たけなわの頃で、米ソは互いに強いライバル心を持っていた。この大会の決勝戦ではアメリカとソ連の代表が対決。試合終了間際の場面でソ連側が審判の判定に抗議し、時計が試合終了3秒前まで戻されやり直しとなった。同じことがもう一度繰り返された末、アレクサンドル・ベロフのシュートが決まり51-50でソ連が勝利を収めるという結果となった。アメリカの強い抗議にもかかわらずソ連の優勝は動かず、アメリカが銀メダル受け取りを拒否するという遺恨試合となった。

1988年のソウル五輪で、アメリカは再びソ連と対戦した。この時は準決勝での戦いとなったが、ミュンヘンの時のような微妙な判定によるものではなく、82対76と地力の差により敗れる形となった。アメリカはデビッド・ロビンソンダニー・マニングダン・マーリーら後にNBAのスターとなった選手を擁していたが、同じく将来NBAで活躍するアルビダス・サボニスらを核としたソ連代表に一歩及ばなかった。アメリカは結局銅メダルを獲得してソウルを去った。

バスケットボール発祥の地であり、バスケットボール大国として君臨してきたアメリカが実力で敗れたため、この敗北はアメリカのバスケットボール関係者に大きなショックを与えた。一方で、選手構成ではソ連に有利な面があることも事実だった。すなわち、出場選手がアマチュアに限定されていた五輪においては、ソ連を含む共産圏諸国は国家のトップクラスの選手が国家公務員というアマチュア名義(ステート・アマ)で五輪に出場でき、かつ国家のバックアップにより競技中心の生活を行えたという利点がある一方で、アメリカはトップクラスの選手がプロフェッショナルで五輪に参加できず、その帰結として伝統的に大学生が主体だった。ソウル五輪まではミュンヘンの例外を除けば、将来のNBAのスター候補生からなるバスケットボールエリートの学生主体のチームでも東側諸国を退けて優勝することができた。しかし、アメリカはついに学生のチームでは勝てない状況に直面した。そして、そのアマチュア主義が見直される時期が迫っていた。
プロ選手の受け入れ

1980年代国際オリンピック委員会は、フアン・アントニオ・サマランチ会長指導のもと、財政再建とオリンピックの規模拡大を進めていた。広告関係やロゴの使用、テレビ放映権などで収入基盤を充実させていく中、サマランチ会長は「世界最高水準の選手がオリンピックに参加すべき」という発言をするようになった。

この発言は、プロを排除してきた従来のアマチュア主義が見直され、プロ選手の参加を認めることを意味した。またさらなるオリンピック人気の向上と増収に貢献することも期待された。

国際オリンピック委員会の方針転換を受け、国際バスケットボール連盟 (FIBA) は1989年にプロ選手が国際的なバスケットボール大会に出場することを認めた。この決定により、1992年バルセロナオリンピックからプロ選手がオリンピックに出場できることになった。

ソウル五輪で敗れたアメリカとしては、プロが参加すれば勝てるはずだという思いがあり、オリンピック委員会の新方針とFIBAの決定は渡りに舟の機会となった。一方NBAとしても、リーグの擁する最高水準の選手がオリンピックに出場することはリーグの知名度向上に貢献するというメリットがあった。
ドリームチームI(1992年バルセロナ五輪)「ドリームチーム (バスケットボール)」も参照

プロの選手がオリンピックに参加できることが明らかになると、アメリカのファンやマスコミは誰が代表に選ばれるかを話題にするようになった。バスケットボールアメリカ代表選手選考を主管するUSAバスケットボールは、代表選手選考の時期が近づくとまずマジック・ジョンソンに声をかけた。ジョンソンは1980年代を中心に活躍し、NBAファイナルで5回の優勝経験を持つ名ポイントガードだったが、1991年HIV感染を理由に突然の引退表明を行っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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