バスク民族主義党
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バスク州の政党
バスク民族主義党
Euzko Alderdi Jeltzalea
Partido Nacionalista Vasco
党首イニゴ・ウルクリュ
創立1895年
本部所在地ビルバオ
政治的思想バスク・ナショナリズム
連邦主義
キリスト教民主主義
政治的立場中道右派
欧州連携欧州民主党
欧州議会会派欧州刷新
国会下院議席6 / 350
国会上院議席5 / 266
バスク自治州議会27 / 75
欧州議会議席1 / 54
公式サイト
EAJ - PNV
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バスク民族主義党(バスクみんぞくしゅぎとう、バスク語: Euzko Alderdi Jeltzalea, EAJ、スペイン語: Partido Nacionalista Vasco, PNV、フランス語: Parti Nationaliste Basque, PNB) は、スペインフランスにまたがるバスク州におけるバスク人の民族主義政党。1895年に結党され、近代のバスク民族運動を主導した。現在はスペインの国会に議員を送る地域政党であり、スペインの自治州・バスク自治州政府の政権与党である。スペインでの正式党名はEuzko Alderdi Jeltzalea-Partido Nacionalista Vascoで、略称として、両言語の略称を併記したEAJ-PNV(またはPNV-EAJ)も用いられる。日本語では、バスク民族党、バスク民族主義者党、バスク国民党などの訳も用いられる。
思想と組織バスク民族主義党の党旗でもあるバスク自治州旗のイクリニャ

現在のバスク民族主義党はバスク地方の独立は要求しないものの、高度な自治を支持する穏健派民族主義政党である。暴力には反対する立場であり、分離独立を求めてテロをも辞さないテロリスト集団ETA(バスク祖国と自由)とは対立している。

キリスト教民主主義インターナショナル創設時の参加政党の一つであるが、現在はフランス民主連合イタリア民主党などとともに欧州民主党の活発な構成政党の一つである。2005年2月21日にスペインで行われた欧州憲法提案に際しては賛成する立場を示し、スペイン国会でもリスボン条約を支持した。

フランス領バスクにも同党の支部政党(フランス語: Parti National Basque, PNB、略称: EAJ-PNB)がある。また、ベネズエラアルゼンチンメキシコウルグアイチリアメリカ合衆国などの在外バスク人の間にも事務所がある。

青年組織として Euzko Gaztedi(略称: EGI)を持つ。

2004年スペイン議会総選挙に際して、バスク民族主義党は他のバスク民族主義政党とともにナバーラにおける政治連合ナファロア・バイを結成している。
歴史
神と古い法創設者のサビーノ・アラーナ

バスク民族主義党は Jaungoikoa eta Lagi-zar'a 「神と古い法」を標語として掲げている。「古い法」(Lagi-zar'a 、現代標準バスク語ではLege-zaharra)とは中世にカスティーリャ王がバスクの自治を認めた特別法(フエロス Fueros)のことで、19世紀半ばのカルリスタ戦争を経て中世的な制度が否定されるまでバスクはこの法で公認された自治を行っていた。伝統を奉じるバスクのカルリスタたちは Dios, patria, fueros, rey 「神・祖国・フエロス・王」という標語を掲げた。初期のバスクの民族主義者の多くはカルリスタから転じたもので、忠誠を捧げる「国家」が示すものをスペイン国家から「バスク国家」へ置き換えたものと言える。

Jaungoikoa eta Lagi-zar'a を略した JeL は、jelkide(JeLの同志)、jeltzale(JeLを奉じる者たち)という表現を生み出した。バスク民族主義党のバスク語名称 Euzko Alderdi Jeltzalea は直訳すると「神と古い法を奉じる者たちのバスクの党」である。また、バスク民族主義党員のことをjelkideと言う。
結党と初期の活動バスク民族主義党によって建てられたバラカルドの集会所

1895年、バスク民族主義党はサビーノ・アラーナらによって設立された。当初はキリスト教保守主義を掲げ、フエロスに基づく地方自治の再生と「バスク民族」の防衛を掲げていた。党員は、バスク語の姓を持っていることによって先祖代々のバスク人であることを証明しなければならなかった。1898年の県会議員選挙でアラーナが当選。1899年にはビルバオ市議会にバスク民族主義党から出馬した候補5名が当選した。1903年、サビーノ・アラーナは病没する。

1921年、アラーナが起こした運動は、穏健な民族主義者 Comunion Nacionalista Vasca (CNV) と、スペインからの独立を求める Aberri (「祖国」)に分裂した。

プリモ・デ・リベーラの独裁下(1923年 - 1930年)において、民族主義者たちの政党は非合法化され、弾圧を受けた。しかしながらその活動は、登山クラブや民俗学クラブを装って続けられた。

1930年末、AberriとCNVは再びバスク民族主義党という名の下に合同した。しかし、一部のグループはこの合同に参加せず、バスク民族主義行動党(Accion Nacionalista Vasca、略称: ACV)を結成した。ACVは穏健民族主義左派であり、独裁に抗する共和主義者社会主義者と結んでいた。

地方分権に寛容であったスペイン第二共和政(1931年 - 1939年)の下で、スペイン国内での自治を目指すのか、スペインからの独立を目指すのかという路線対立が再び現れた。1934年から1935年にかけて、Eli Gallastegi ら急進的な独立主義者の小グループは、週刊誌 "Jagi-Jagi" とビスカヤ登山連盟を中心に結集してバスク民族主義党を離脱し、バスク民族主義党が求める自治主義を拒絶した。
スペイン内戦

1936年7月18日、軍部の叛乱(後にフランコが主導)によりスペイン内戦が勃発する。バスクではアラバ県パンプローナ県がフランコ軍の占領地域となった。

この事態への対処をめぐってバスク民族主義党は混乱する。カトリック主義という点で、バスク民族主義党はフランコ軍と共通の価値観を持っており、また法王庁からは共和国政府に近づかないよう圧力を受けてもいたためである。しかし、共和国政府から与えられた自治の約束と反ファシズム思想によって、バスク民族主義党は共和国政府側につくこととなる。党でもっとも人数の多かったビスカヤ県ギプスコア県の支部は、スペイン内戦を通して共和国政府支持と反ファシズムを明確に打ち出し、共和国政府側の地域の要となった。

一方、フランコ軍が占領した地域において、バスク民族主義党員は厳しい事態に直面することになった。党の県委員会のメンバーの中には、共和国政府を支持しないという通告を公的な決定抜きに出した者もあった。党員はフランスや政府側地域に逃亡したり、フランコ軍に抵抗して獄死、あるいは処刑されたりした。また、一部の党員は信条のために、あるいは攻撃を避けるためにカルリスタの隊列に身を投じた。弾圧は左翼に集中したとはいえ、バスク民族主義者もまた標的とされた。フランコ軍地域では7月には党の建物とは閉鎖され、機関紙は廃刊された。


1936年10月7日、スペイン共和国の下では困難な状況の中でバスク自治政府が成立し、バスク民族主義党の党首ホセ・アントニオ・アギーレが初代バスク自治政府首班(レンダカリ)に選出された。ビスカヤ・ギプスコアとフランコ軍に占領されていない地域を統治した自治政府は、ただちにバスク軍を組織した。バスク軍には、バスク民族主義者党を含むさまざまな政治団体が募集した民兵が結集した。

1937年6月、バスク地方で最も重要な都市であり、スペイン有数の工業都市でもあったビルバオはフランコ軍に占領された。共和国政府は撤退に際してビルバオの工業施設(製鉄・機械工業)の破壊を要請したが、アギーレらバスクの民族主義者たちはこれを拒否した。バスク人の将来の繁栄を確保する責任があると考えたためである。ビルバオを占領したフランコの叛乱軍はこれらの重要産業を利用することができた。1937年7月、バスク全域を失ったバスク軍はサンタンデール方面に撤退、共和国政府の支援もないまま、サントーニャ協約に従ってバスク軍はイタリア義勇軍に降伏した。ファシストたちは彼らの投獄や処刑を命じた。バスク民族主義者党の幹部の多くはバスク軍とともに行動しており、兵士たちと同じ運命を辿ることになった。
フランコ体制とバスク亡命政府

支配領域を失った「バスク亡命政府」は、共和国政府の拠点バルセロナに逃れ、カタルーニャが陥落するとフランス・ベルギーを流転した。ドイツがベルギーを占領すると、アギーレ大統領はベルリンを経てアメリカ大陸に脱出、ブラジル・ウルグアイなどを経てアメリカ合衆国ニューヨークに移動し、バスク系アメリカ人の支援を受けて政治活動を続け、アメリカ合衆国の支援を期待した。第二次世界大戦中は連合国側で働き、戦後の冷戦期はラテンアメリカでの共産主義運動と戦うCIAにも協力している。


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