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バスク・ペロタ
オリンピック競技ピクトグラム
統括団体国際バスク・ペロタ連盟(英語版
バスク・ペロタ (バスク語: pilota, フランス語: pelote basque, 英語: Basque pelota)は、選手自身の手(素手)、グローブ、ラケット、バットなどを用い、壁に向かってボールを打つコート・スポーツの総称である。ペロータ・バスカ(スペイン語: pelota vasca)や単にペロータとも。 ペロタという単語は俗ラテン語のpilotta(ボールゲーム)という単語に由来している。小さなpilottaを表すpilaという単語は、pilus(毛皮や毛髪)を詰めた硬質の亜麻布または革製のボール[1]、または「耕す」(spade)を表すラテン語のpelle、「打つ」(strike)を表すラテン語のpello、「小さな球」を表す英語のpelletに関連している可能性がある[2]。 その起源は古代ギリシアや他の古代文化に遡るとされる[3]。歴史的には中央線やネットを挟んで2チームが向かい合って行われたとされる。ハイナー・ギルマイスター(Heiner Gillmeister)は1990年の著書『テニスの文化史』で、ヘンリー7世の会計記録がペロタに関する最初の言及とし、その記録には「イギリス・テニスとバスク・テニスの間には大きな差がなかった」と書かれていることを明らかにした[4]。ギルマイスターはさらに、バスク地方でペロタが初めて描写されたのが1629年であるとしている[4]。 このスポーツの起源は、1700年頃に歴史的なジュ・ド・ポームが衰退したことに関連しているとされる。歴史的なジュ・ド・ポームは、ラケットを使用する近代的なジュ・ド・ポーム(イングランドではリアル・テニスと呼ばれた)に発展し、やがて現在のテニスに進化した一方で、農村部やピレネー山麓のコミュニティでは歴史的なジュ・ド・ポームの伝統が維持された。ジュ・ド・ポームは、バスク地方ではパサカやラショアと呼ばれる独特の様式の球技(pilota)に発展し、競技者が中央部のネットを挟んで対面する代わりに、壁に向かってボールを投げつけるようになった。 ジュ・ド・ポームがペロタに発展したとするのがテニス史の定説であるが、日本体育大学大学院教授の稲垣正浩はこの常識に異論を唱え、遊戯性の強い対人ゲームのジュ・ド・ポームから、祭祀性の強い壁打ちゲームのペロタに、先祖帰りとも呼べる進化をしたとされること、ラケットを使用して魅力を増したジュ・ド・ポームから素手での打撃にこだわるペロタに、やはり先祖帰りとも呼べる進化をしたとされることの合理性に疑問を投げかけている[5]。 かつてのペロタは祭祀儀礼だったとされる。現在でも山間部の集落のペロタ競技場はカトリック教会に付設され、集落でもっとも見晴らしのよい場所に立地している[6]。稲垣は、太陽信仰の祭祀場としてのペロタ競技場が先にあり、後から隣接地に教会が建てられたのではないかと推測している[7]。稲垣はペロタのルーツを、素朴な戦闘技術としての石投げの実戦訓練に求めている[8]。 ペロタ研究者のチピテイ・エチェトによれば、ペロタが初めて文献に登場するのは19世紀初頭のナポレオン時代に行われた試合であり、その試合は今日では珍しくなったレボットと呼ばれる種目に近かったとされている。 19世紀半ばにはペロタのブームが爆発した。1860年頃にはペロタ選手のガンチキ・ディトゥルビデ(Gantchiqui Dithurbide)によって、チステラと呼ばれるバスケット状のラケットが導入され、信じられないほどの速度でボールを打ち返すことが可能となった。19世紀末には優勝者がチキート・デ・カンボと呼ばれ、大きな人気を得たほか、当時のスポーツ選手としては最高の敬意を払われた。
名称
歴史ラブールのアイノアにある競技場
起源に関する定説
起源に関する異説
発展後の歴史と国際性
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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