バシレイオス2世
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バシレイオス2世“ブルガロクトノス”
Βασ?λειο? Β? ? Βουλγαροκτ?νο?
東ローマ皇帝
異民族を平伏させる軍装のバシレイオス2世(復元画)
在位976年1月10日 - 1025年12月25日
別号共同皇帝(960年 - 976年

全名バシレイオス
出生958年
東ローマ帝国 コンスタンティノポリス
死去 (1025-12-25) 1025年12月25日(67歳没)
東ローマ帝国 コンスタンティノポリス
家名マケドニア家
王朝マケドニア王朝
父親ロマノス2世
母親テオファノ
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バシレイオス2世“ブルガロクトノス”(Βασ?λειο? Β? ? Βουλγαροκτ?νο?、958年 - 1025年12月25日[1])は、東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(在位:976年 - 1025年)。禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。また、バシレイオス2世の名に付随して「緋色の産室生まれ=ポルフュロゲネトス(Πορφυρογ?ννητο?)」の号が付く場合もある[2]
概要バシレイオス2世治世下の東ローマ帝国領

過去のユスティニアヌス1世(「大帝」とも呼ばれる皇帝)以降、最大の領土を達成したため、東ローマ帝国の数ある皇帝の中でも偉大な皇帝とされている。

コンスタンティノス8世とともに父ロマノス2世存命中に共同副帝として戴冠していたが、父の死(963年)後も摂政のため実権を得ることなく、27歳のとき、ようやく名実ともに正帝となった。バルダス・フォーカスの反乱の鎮圧(987年 - 988年)にキエフ公国ウラジーミル1世(妹アンナと反乱後婚姻)の援軍を得、この討伐に成功した。また、これを機にキエフ公国はキリスト教を受容、キエフ大司教はコンスタンティノープル総主教の監督下に入った[3]

一方、帝国治下のバルカン半島ではサムエル王指揮下のブルガリアが帝国領を侵害したため、バシレイオス2世は23年の間ブルガリア戦役を行った。クレディオンの戦い(1014年)に勝利を収め、バシレイオス2世は全バルカン半島を再び帝国領とした。このため「ブルガリア征服王(ブルガロクトノス)」と呼ばれる。続いてシリアアルメニアを攻略、占領後この地に7つのテマ制を新設、バルカン半島のそれと合せると10を数えるまでとなり、マケドニア朝の最盛期を築いた[3]

その他にも、国内的には自由農民の耕作地を大土地所有者から守るための法律改正を行い、国内の貴族らによる封建化を押えるなど業績を残した。しかし、南イタリアを基地にシチリア島のイスラム勢力掃討の準備中に急死し、弟コンスタンティノス8世が跡を継いだ。彼は無能であったにもかかわらず、バシレイオス2世の善政の影響で彼の死後数十年にわたって帝国は繁栄したとされている[3]
生涯
即位以前

マケドニア王朝の皇帝ロマノス2世の長男として産まれ、960年には共同皇帝に即位する。963年に父が若くして急死した。ヨセフ・ブリンガスが排除されて以後は弟で共同皇帝のコンスタンティノス8世の寝室管理長官で宦官でもある大叔父のバシレイオス・レカペノス(英語版)(ノソス。ロマノス1世レカペノスの庶子)、母テオファノの再婚相手である軍事貴族出身の皇帝ニケフォロス2世フォカス、次いでニケフォロス2世を殺害して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスの下で、引き続き単なる飾り物の共同皇帝としての幼少年期を過ごした。

964年にニケフォロス2世フォカスにより行われたキリキア遠征では母と共にニケフォロス2世に従軍し、ドリズィオン要塞に留まった。
正帝即位後バシレイオス2世の対ブルガリア遠征からの凱旋

976年のヨハネス1世の死によって、成人していたバシレイオスは晴れて正帝となったが、寝室管理長官である大叔父のバシレイオス・レカペノスが引き続き政権を握ることになり、バシレイオス・レカペノスと対立したバルダス・スクレロスの反乱や第一次ブルガリア帝国の再興とブルガリア皇帝サムイルの侵攻に悩まされることになる。

986年トラヤヌスの門の戦いに出陣するも小男ステファノスとレオン・メリセノスとの内部対立もあって第一次ブルガリア帝国に敗北した。バルダス・スクレロスの反乱を鎮圧した軍事貴族バルダス・フォカス(ニケフォロス2世フォカスの甥)やエウスタティオス・マレイオスなど、この戦いで不参加であった軍事貴族の不満や傭兵への敬意に欠けたバシレイオス2世の対応、占星術師らに端を発する「BはBを追い払い、Bが支配する」という流言による民心動揺もあり、バルダス・フォカスの反乱が起こり絶体絶命の危機に陥った。しかし軍事貴族の反乱はキエフ大公国の援軍(en:Rus'-Byzantine War (987))を得てコンスタンティノス8世とともに出陣して臨んだアビドゥスでの決戦におけるバルダス・フォカスの死やこの反乱に合流していたバルダス・スクレロスの懐柔で平定に成功した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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