バシリカ・ユリア
Basilica Julia
(Basilica Giulia)
所在地フォルム・ロマヌム
建設時期紀元前46年,紀元238年
建設者カエサル
建築様式バシリカ
関連項目ローマの古代遺跡一覧
バシリカ・ユリア(ラテン語: Basilica Julia)は古代ローマのフォルム・ロマヌムにあった公会堂(バジリカ)。フォルム・ロマヌムの中央広場(フォルム)からみて、聖なる道(英語版)を挟んだ南側に隣接している。 バシリカ・ユリアは、紀元前54年[1])にガリア戦争の勝利で得た資金をもとにして、カエサルが建設を始めた[2]ものである。建設用地は、紀元前170年に建てられたバシリカ・センプロニア
概要
このバシリカは主に民事裁判所として使われ、また施設内にはタベルナ(食堂)街や官公庁の事務所も居を構えていた。特別民事裁判所ケントゥムビリ(英語版)(百人法廷)の会場[1][2]としても有名で、相続問題について審理される法廷ともなっていた。小プリニウスの書簡によれば、『新たな嫁を迎えた10日後に死去した80歳の故人が、提訴者Attia Viriolaを相続人から外したのは違法である』との訴えを審理した例[2]が書かれている。
また、ローマ市民の会合の場所としてもよく使われ、そのための部屋や店などもあったが、バシリカ・ユリアの本来目的は裁判所の法廷としての利用であった。ポルチコ(列柱廊)の大理石床には8×8のマス目が嵌め込まれている場所があり、市民がチェスやチェッカーのようなゲームに興ずる場所をも提供していたようだ。
410年の西ゴート族アラリック1世によるローマ略奪でバジリカは破壊され廃墟となっていたが、7世紀から8世紀頃に教会として建物の残存部分が利用されたようである。現在、バシリカ・ユリアは周囲より1mほど嵩上げされた101m×49m[1]の長方形基礎部分が残存しており、聖なる道(英語版)に面した側は階段状の基盤が残っている。建物を支えていた柱や壁は、北西角に若干の壁と共に残存している円柱数本を除いて、基礎部分の礎石を残すのみでほぼ全てが失われている。バシリカの中央の大広間は82m×16mの広さで、周囲を7.5m幅の大理石円柱で支えられた柱廊で取り囲んでいた[1]。
関連項目
フォルム・ロマヌム
ローマ市内の古代ローマ時代のバジリカ
バシリカ・アエミリア
バシリカ・ユリア(この記事)
バジリカ・ウルピア
マクセンティウスのバジリカ
参考文献.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、バシリカ・ユリアに関連するカテゴリがあります。^ a b c d e Samuel Ball Platner , A Topographical Dictionary of Ancient Rome ⇒Basilica Julia, London: Oxford University Press, 1929.
^ a b c Encyclopaedia Romana ⇒Basilica Julia by James Grout