バグラーン州
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バグラーン州
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分 東経69度0分 / 北緯35.750度 東経69.000度 / 35.750; 69.000座標: 北緯35度45分 東経69度0分 / 北緯35.750度 東経69.000度 / 35.750; 69.000
アフガニスタン
州都プリ・フムリー
政府[1]
 ? 州知事スルタン・モハンマド・エバーディー
面積[2]
 ? 合計18,255.2 km2
標高[3]626 m
人口(2012)[2]
 ? 合計863,700人
 ? 密度47人/km2
等時帯UTC+4:30
ISO 3166コードAF-BGL
座標は[4]

バグラーン州(バグラーンしゅう、ペルシア語: ?????‎[5])は、アフガニスタン北部のである。面積は1万8255平方キロメートル(34州中12位)[2]、総人口は約86万人(34州中12位)[2]、人口密度は47人/平方キロ(34州中15位)である[2]。州都はプリ・フムリー。バグラン県やバグラン州とも。
地理

バグラーン州は日本の四国とほぼ同じ大きさの州である。ヒンドゥークシュ山脈の北側にあたる。
歴史
青銅器時代・古代インダス川とアムダリヤ川をつなぐ古代の道路[6]

古代のインダス文明はメソポアミア・ハラッパー路を通じて、金などの貴金属や木材をメソポタミア文明に輸出していた。ガンダーラの首都はパキスタンタキシラにあり、ジャララバードからプレ・フムリーを経てパンジ川に達する古道は、ヒンドゥークシュ山脈を越えてアムダリヤ川に達する重要な街道の1つだった[7]グレコ・バクトリア王国

紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世が地域を征服し、その後グレコ・バクトリア王国クシャーナ朝などが成立し、スルフ・コタルなどの町が出来た。

629年、玄奘三蔵がインドを目指してを出発し、途中でバグラーン州の近くを通過した。当時のバグラーンは縛伽浪国と呼ばれていた[8]
独立後

1921年、第三次アフガン戦争の勝利によりアフガニスタンはイギリスから独立した。1933年、国王ザーヒル・シャーが即位した。1942年、プリ・フムリの紡績工場が操業を開始した[9]
冷戦時代1989年のアフガニスタンの状況。赤が政府支配地、薄い青がイスラム協会、濃い緑がイスラム党、薄い緑がシーア派政党

バグラーン州は1950年頃はカタガン州の一部だったが、1958年から1964年頃に分割されてバグラーン州とプレ・フムリー州とクンドゥーズ州になった。1964年4月、バグラーン州とプレ・フムリー州が再び合併してバグラーン州になった[10]。第二次世界大戦後、アフガニスタン首相のモハマド・ダーウド・ハーンはソビエト連邦アメリカ合衆国の力を借りて、国内の開発を行おうとした。当初は乗り気ではなかった両国だったが、冷戦対立の下で1950年代後半から本格的な支援を始めた。バグラーン州ではソビエト連邦やチェコスロバキアなど東側陣営が重点的に支援を行い、プレフムリー・マザーリシャリーフ間の道路建設[11]、製糖工場や植物性食用油工場の建設[12]、炭鉱開発[13]などが行われた。

1973年、ダウード首相のクーデータにより王政が倒され、アフガニスタン共和国が成立した。1978年、軍部のクーデターによりアフガニスタン民主共和国が成立した。ギルザイ部族連合タラキー議長が土地改革を断行した為、ドゥッラーニー部族連合を中心とする伝統的な部族社会は激怒して内戦が勃発。アミーン議長も内戦を抑えることが出来ず、翌年にはソビエト連邦が軍事介入してアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まった[9]ムジャーヒディーンパンジシール渓谷などでゲリラ活動を行ったが[14]、戦費調達のための強制的な課税により住民に不満が高まった[15]ハザーラ人で地元のイスマーイール派教団の指導者であるサイイド・マンスール・ナーディリーは武装信徒を率いて、パシュトゥーン人タジク人を主体とするムジャーヒディーンと一線を画した[15]。1982年、ソビエト連邦はバグラーン州南部にカヤン軍事地域を設立し、イスマーイール派教団に地域を委ねた[16]。またソビエト連邦はキリガイに国内最大級の補給基地・戦車修理工場を建設した[17]。1984年、ナーリン郡には政府軍の第20歩兵師団が展開していた。しかし政府軍の兵力は少なく、実質的には旅団または大隊規模で、少数の装甲車(BTR-152BTR-60)と民間から徴用したトラックで構成されていた[18]。1988年、共産党政権はジョウズジャーン州のラシッド・ドスタムにウズベク人民兵隊を組織させて、幹線道路を守らせた[19]。バグラーン州ではサイイド・マンスールを上院議員に任命して[15]、武装信徒1万3000人を味方につけた。
冷戦終結後

1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退してもカブールの共産党政権はなんとか持ちこたえていたが、1991年にソビエト連邦が崩壊すると民兵の間に動揺が走った。1992年、サイイド・マンスールは共産党政権を裏切ってラシッド・ドスタムと共に自立し、カブールの共産党政権を倒したがすぐに内戦が始まった。1994年3月、イスラム協会(英語版)軍がカブールとタジキスタンの間の輸送路を確保するためにバグラーン州に侵攻して、ヒンジャーン郡やドーシー郡を占領した[20]。イスマーイール派教団は、1995年から1996年頃にバグラーンからプレ・フムリーに州都を移した[21]。1998年8月、ターリバーンはラシッド・ドスタムの根拠地であるマザーリ・シャリーフを陥落させ、パンジシール渓谷を包囲するためにバグラーン州に侵攻して、州都プレ・フムリーを占領した[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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