バグジー・マグロー
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バグジー・マグロー
デビッド・フォン・エリックショルダー・スルーで投げるマグロー(1982年)
プロフィール
リングネームバグジー・マグロー
ザ・ビッグ "O"
ビューティフル・ブルータス
マイティ・ブルータス
ザ・ブルート
ザ・ステューデント
ザ・スカル
本名マイケル・デービス
ニックネーム鮮血の荒熊
身長191cm - 192cm
体重130kg - 137kg
誕生日 (1945-11-01) 1945年11月1日(78歳)
出身地 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州
メクレンバーグ郡シャーロット
デビュー1967年
引退1991年
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バグジー・マグロー(Bugsy McGraw、本名:Michael Davis、1945年11月1日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーノースカロライナ州シャーロット出身[1]

現役選手時代は巨漢のラフ&パワーファイターとして、WWWFNWAなどのメジャーテリトリーで活躍[2]。日本にも、昭和期の各団体に参戦した[3]
来歴
デビュー?1970年代

1967年に黒人レスラーのトム・ジョーンズのトレーニングを受けてデビュー。デトロイトインディアナポリスなどの五大湖エリアから南部テキサスフロリダ、さらにはハワイなどNWAの各テリトリーを転戦し、リングネームを様々に変えてキャリアを積む。フロリダでは覆面を被り、マスクマンのザ・ビッグO(The Big "O" )に変身したが[4]、マスクと髪の毛を賭けたコントラ・マッチジョー・スカルパに敗れ、覆面を剥がされた[2]

その後、ビューティフル・ブルータス(Beautiful Brutus)と名乗るスキンヘッドの巨漢ヒールとなり、後の主戦場となるフロリダでは1969年9月3日、マイアミにてグレート・マレンコを破りブラスナックル王座を獲得した[5]1970年上期にはネブラスカ州オマハを拠点とするAWAのミッドウエスト地区において、スタン・プラスキーカウボーイ・ボブ・エリスとAWA中西部ヘビー級王座を争った[6]。同年10月より太平洋岸サンフランシスコ地区にて、マイティ・ブルータス(Mighty Brutus)の名義で活動。1972年3月、このリングネームで日本プロレスに初来日[1]、日本プロレス最後のワールドリーグ戦となった第14回大会に参加している。ジャイアント馬場坂口征二大木金太郎のトップ3には連敗したものの、吉村道明ミツ・ヒライなどの中堅勢からは勝利を収め、外国人陣営ではゴリラ・モンスーンアブドーラ・ザ・ブッチャーディック・マードックカリプス・ハリケーンに次ぐ戦績を残した[7]

1973年からはザ・ブルート(The Brute)に改名してカナダバンクーバー地区に参戦、3月29日にジン・キニスキーからNWA太平洋岸ヘビー級王座を奪取し、以降もシーン・リーガンジョージ・ゴーディエンコとタイトルを争った[8]。日本にもザ・ブルートとして1974年3月に国際プロレスに来日しており、ラッシャー木村グレート草津金網デスマッチで対戦[9]。3月31日には釧路にて、ジム・ブランゼルと組んで木村&草津のIWA世界タッグ王座に金網タッグ・デスマッチで挑戦した[10]。シリーズ中は、国際プロレスに特別参戦していたジャイアント馬場とも度々対戦している[9]。その後はサンフランシスコ地区に戻り、1975年1月25日にピーター・メイビアから同地区認定のUSヘビー級王座を奪取した[11]

1975年の下期より、「ばい菌」「害虫」などを指す蔑称の "Bugsy" を冠したバグジー・マグロー(Bugsy McGraw)のリングネームでWWWFに登場。キャプテン・ルー・アルバーノプレイング・マネージャーに迎え、9月6日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンブルーノ・サンマルチノと対戦[12]。以降も12月8日にメリーランド州ランドーバー、翌1976年1月10日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦した[13]。WWWFではヒールの中堅として、ゴリラ・モンスーン、ボボ・ブラジルヘイスタック・カルホーンチーフ・ジェイ・ストロンボーイワン・プトスキーなどのベビーフェイス勢と対戦。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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