バクトリア
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この項目では、主に古代の地域名について説明しています。バクトリアのギリシア人王国については「グレコ・バクトリア王国」をご覧ください。
バクトリアの範囲

バクトリア(Bactria)は、バクトリアーナ(バクトリアナ)、トハーリスターン(トハリスタン)とも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈アム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。

現在はイランの北東の一部、アフガニスタンタジキスタンウズベキスタンおよびトルクメニスタンの一部に当たる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。
歴史
オアシス都市バークトリシュ

バクトリアが最も古く現れる史料は、アケメネス朝ダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)によって建てられた『ベヒストゥン碑文』にバークトリシュ(Bakhtri?)とあるのが初見である。バクトリアはヘラートメルヴサマルカンドなどとともに中央アジアにおけるイラン系民族によって建設された最古のオアシス都市の一つである。首都のバクトラは現在のバルフに比定されている。現在、バルフは人口数百の小さな村落にすぎないが、村の近くには城壁に囲まれた巨大な廃墟がある。多くの西洋学者はこの遺跡をバクトラに比定し、しばしば発掘調査を試みたが、今までのところバクトラに比定すべき証拠は発見されていない。一説には現在のバルフは古代のバクトラではなく、バクトラはもっとアム川に近いところにあったともいわれている。しかし、バルフの付近には古代ゾロアスター教の祭壇の遺跡もあり、バクトリアの貨幣も多く出土している[1]
ゾロアスター教の中心地

ペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアスター教の開祖であるゾロアスターは、古くからバクトリアの人だという伝説がある。この点については諸説あって不明だが、少なくともアケメネス朝時代にはバクトラがゾロアスター教の中心地の一つであったことは明らかである。また、ゾロアスターの年代についても諸説あるが、古いペルシアの伝説では、ゾロアスターはアレクサンドロスの侵入より258年前の人だとされている。彼は70歳で死んだといわれているので、もしこの伝説をとるならば、紀元前6世紀頃の人物であるといえ、この時代はちょうどアケメネス朝の初期にあたる[2]
ペルシア人とサカ人の共同支配

紀元前6世紀のバクトリアの人口の主要部分、少なくともその支配階級はペルシア人スキタイ人とによって構成されていたものと考えられるが、スキタイ系のサカ人がこの地域にペルシア人よりも早くから住んでいたことは、ヘロドトスや、その後のストラボンなどが伝えているバクトリアの習俗によっても知られる。サカ人に遅れてバクトリアに侵入し、これを征服したペルシア人は、サカ人やその他の先住民の支配者となったが、その数は多くはなかったので、険要な地を選び、城や砦を築いて住み着いた。彼らは、その軍事力と組織力によって原住民の社会秩序を維持するとともに、税を徴収していたものと思われる。ローマ時代の史料によると、バクトリアは7000人の貴族によって支配されていたという。また、ヘロドトスがしばしば「バクトリア人とサカ人」と並称させているところからみても、ペルシア人と先住のサカ人が共同して支配階級を構成していたものと思われる[3]
アケメネス朝の支配下アケメネス朝のバクトリア属州の位置(右上)

ペルシア人がバクトリアに進出したのは、紀元前6世紀より古いことは確かであるが、ペルシアがこの東方の豊かな地方を完全に支配下に置くようになったのは、アケメネス朝のキュロス2世(在位:前559年 - 前529年)の時代である。キュロス2世はアケメネス朝に対するスキタイ人の脅威に対抗するために、親征して中央アジアのスキタイ人をヤクサルテス(シル)川北方に撃退し、この危険な遊牧民の南下を防ぐためにオクサス(アム)川北方のソグディアナ・キュロポリスとして知られる都市を建設した。しかし、アケメネス朝の首都スーサから遠いバクトリアやソグディアナを直接支配することは困難であったので、キュロス2世はスメルディス王子をバクトリアのサトラップ総督)に任命した。その後、キュロス2世はバクトリアの北方国境を脅かしたスキタイ系のマッサゲタイ人と戦って戦死する。キュロス2世の死後、数年にわたって混乱が続いたが、紀元前522年ダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)が帝位に就くと、キュロス2世によって建設されたアケメネス帝国はここに完成することとなる。ダレイオス1世はその広大な領土を再編成し、全国を30の行政区画(サトラッピ)に分け、それぞれにサトラップを置いた。ここにおいてバクトリアはアケメネス朝第12番目のサトラッピ(州)となり、中央に対する納付年額は360タレントと定められた[4]。この金額はアッシリアの納付額1000タレントと比べるとそれほど多いものではないが、当時の開発程度から見てそれほど少ない額でもなかった。

紀元前512年、ダレイオス1世はバクトリアを根拠地として西北インドに遠征隊を送り、西インドと紅海をつなぐ航路を開拓した。その結果としてインダス河口からペルシア湾に達する貿易路が開設された。また、西北インドにアラム文字がもたらされ、カローシュティー文字の起源はバクトリア経由のペルシアとインドの交流によるものと考えられる。

アケメネス朝でクセルクセス1世(在位:前486年 - 前465年)が即位すると、バクトリア総督にその弟のマシステス(英語版)が任命された。マシステスは紀元前480年ギリシア遠征に、バクトリア軍を率いて従軍した。この遠征隊の中にはバクトリアのペルシア人とサカ人の騎兵隊が含まれていたという。しかしその後、マシステスは宮廷内の陰謀によって生命を失い、代わって弟のヒスタスペス(ポルトガル語版)がバクトリア総督に任命された。クセルクセス1世の死からアレクサンドロスの侵入までの歴史は不明であるが、バクトリアはアケメネス朝にとって重要な東方領であり、常に北方のスキタイ系遊牧民の脅威にさらされていた。このバクトリアを効率的に防衛するには、オクサス川以北の地(ソグディアナ)の確保が必要であった[5]
アレクサンドロスの侵入バクトリアの位置(紀元前320年アレクサンドロス帝国」の最大領域。

紀元前334年から紀元前331年の4年間にわたって、マケドニア王国アレクサンドロス3世は、地中海の東海岸からペルセポリスの占領まで疾風のような遠征を行った。アレクサンドロスはアケメネス朝の古都パサルガダエを破壊してダレイオス3世(在位:前336年 - 前330年)を追跡した。ちょうどその頃、ダレイオス3世の軍中にあったバクトリア総督のベッソスは、貴族階級の支持を受けてダレイオス3世を捕え、アレクサンドロスに引き渡そうとしていた。しかし、その報を受けたアレクサンドロスがカスピ海の東端付近に達すると、ベッソスは恐怖にかられ、ダレイオス3世を殺害して逃走を続けた。まもなくアレクサンドロスは遺棄されたダレイオス3世の遺体を発見し、これを手厚く葬ってやった。ベッソスはアレクサンドロスの追撃を振り切ってバクトラに帰着すると、自ら帝位に就いてアルタクセルクス4世と称した。アレクサンドロスは東方へ進撃し、バクトリア・ソグディアナの征服を意図して紀元前329年にはヒンドゥークシュ山脈を越えてバクトラへ向かった。マケドニア軍の接近を聞いたバクトリア軍の多くはベッソスを棄てて逃亡し、ベッソスはオクサス川を渡ってソグディアナに入り、河岸にあった船を焼いた。しかしマケドニア軍はヒツジウシの皮袋、手製のを使い渡河してソグディアナに侵入、ベッソスを捕えて処刑した。このときベッソスを捕えてアレクサンドロスに引き渡したのは、ベッソスの側近であるスピタメネスであったが、彼はその後、アレクサンドロスの不在に乗じてサマルカンド留守の2部隊を攻撃し全滅させた。その頃アレクサンドロスは、ヤクサルテス川南岸にマケドニア軍兵士の殖民都市(アレクサンドリア)を建設中で、北方のサカ族を攻撃していたが、その報を聞くとサカ族の軍を撤退させた後、サマルカンドに向かった。これを聞いたスピタメネスはオクサス川を渡ってバクトリアへ遁走した。スピタメネスはその後、しばしばソグディアナ・バクトリアを襲撃したが、あるとき遊牧民に殺され、その首はアレクサンドロスに献上されることとなった。こうして紀元前327年までにトゥーラーンの征服を完了したアレクサンドロスは、この地方でイスカンダール、またはイスカンダール・ズルカルナイン(二本角のアレクサンドロス[6])と呼ばれるようになる。[7]
セレウコス朝セレウコス朝の最大領域(黄色)。詳細は「セレウコス朝」を参照

アレクサンドロスが紀元前323年バビロンで死去すると、各地で後継者が独立勢力を興し、抗争によって何度かバクトリアの支配者が交替した後、紀元前312年になって将軍のセレウコス勝利王(ニカトール)が掌握した。しかし、紀元前280年にセレウコス1世は部下に殺される[8]。3代目の君主アンティオコス2世テオス(在位:紀元前261年 - 紀元前246年)は、ディオドトスという者にバクトリア・ソグディアナのサトラップ(総督)を任命した。しかしアンティオコス2世が死去すると、その2人の息子の間で王位継承争いが起きたため、各地でセレウコス朝からの離反が始まった。[9]
グレコ・バクトリア王国グレコ・バクトリア王国の領域詳細は「グレコ・バクトリア王国」および「インド・グリーク朝」を参照

紀元前250年頃、「千の都市のバクトリア」と呼ばれたこの中央アジアの富裕な地の総督であったディオドトスは、セレウコス朝から独立してグレコ・バクトリア王国を建国したとされるが、この前後のことは明らかではない。

グレコ・バクトリア王国が最も強盛となるのは、紀元前200年 - 紀元前160年頃のデメトリオス1世以後のことで、その頃のバクトリアのギリシア人は、ヒンドゥークシュ山脈中部のカーブル盆地を根拠地として、南東へ向かってインドに侵入し、その西北部では有名な仏教の保護者であるアショーカ王の死で衰退していたマウリヤ朝の領土を奪取した。しかしそのデメトリオスは紀元前160年頃、エウクラティデスに王位を簒奪される。エウクラティデスは自らをマハーラージャと称して、バクトリア王であると同時にインドの支配者であることを宣言した。しかし紀元前156年頃、彼はその息子に殺害され、間もなく西北インドのギリシア人王国(インド・グリーク朝)はメナンドロス1世を最後として消滅してしまい、その子孫たちはインド人の中に吸収されてしまう。一方バクトリア本国に残された少数のギリシア人は、西方のペルシアやメソポタミア、南のインドなどの文明圏にとっては、剽悍なこれらの遊牧騎馬民族の侵入に対する防壁、あるいは緩衝地帯の役割を担っていた。

紀元前3世紀の半ば頃から、カスピ海西方の草原で勢力を拡大しつつあった遊牧民族パルティアは、アレクサンドロスの継承王朝であるセレウコス朝とも、東方のバクトリア王国とも交渉を持っていた。彼らは次第にこの二つのギリシア人国家に対する圧力を増大しつつあったが、バクトリアにとっての脅威はむしろ北方および東方の遊牧民、サカ人とトハラ人であった。サカ人は早くからパルティアに服属したが、トハラ人はソグディアナを占領し、一方ではパルティアと対抗し、南方ではバクトリアに圧力をかけていた。しかし、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけての中央アジアの情勢についての史料が乏しくなり、この頃のバクトリアの歴史が不明瞭となる[10]
張騫の西域訪問シルクロードとバクトラ(現在のバルフ)。中央下あたりに位置する。

これよりはるか東方、中国大陸を支配する漢帝国は北方の遊牧騎馬民族である匈奴の侵入に悩まされていたが、遂に西方の月氏と共同で匈奴を撃つべく、武帝(在位:前141年 - 前87年)は張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。張騫によると、この大月氏国の都は?水(オクサス川)の北(ソグディアナ)に在り、その川の南にある大夏を役属させていたという。大夏とはおそらくトハラの転写と思われ、かつてバクトリアに侵入していたトハラ人もしくはトハーリスターン(トハラ人の土地)であると思われる。その大夏の都は藍市城といい、これがバクトラにあたるといわれるが、定かではない。しかし、いずれにしてもこの地がバクトリアであるのは間違いない[11]

当時のバクトリアは、アシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイなどの侵寇を被っただけでなく、紀元前136年頃からはパルティアの圧力が強くなり、バクトリアのギリシア人は一方でこのような遊牧民と戦うとともに、他方ではヒンドゥークシュ山脈を越えてインド北西部に遠征した。そのため、もともと少数であったギリシア人の数は減少し、紀元前140年?紀元前130年までには、グレコ・バクトリア王国は消滅してしまったらしい。


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