バウンティ_(帆船)
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HMS バウンティ
1960年建造のレプリカ
基本情報
建造所 イングランド王国キングストン・アポン・ハル、ブレイデス造船所
運用者 イングランド海軍
艦種武装輸送船
艦歴
進水1784年(石炭船「ベシア」として)
就役1787年 - 1790年
最期1789年4月28日、反乱者に奪取される。1790年1月23日、ピトケアン島において焼却。
改名ベシア→バウンティ
要目
排水量215 トン (BOM)
全長90.83 ft (27.68 m)
最大幅24.3 ft (7.4 m)
深さ11.5 ft (3.5 m)
帆装3本マスト(全装帆船
乗員46名
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4ポンド砲×4基

旋回砲×10基

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HMS バウンティ(HMS / HMAV [注釈 1]Bounty)は、イギリス海軍武装輸送船。1789年、タヒチ島パンノキを採取して西インド諸島に向かう途中、船を指揮していたウィリアム・ブライに対して乗組員が起こしたバウンティ号の反乱で知られている[1]

事件を題材にした映画の影響などで「戦艦」バウンティ号と呼ばれることがあるが、この呼称は適切ではない。(後述
建造 - 海軍による購入

元々は石炭運搬船「ベシア」として、1784年にヨークシャー州キングストン・アポン・ハルのブレイデス造船所で建造された。

1787年5月23日、イギリス海軍はベシアを1,950ポンド(2016年時の換算で209,000ポンド)で購入し、「バウンティ」と改名した[2]

バウンティは排水量215トンという小型船[注釈 2]ながら、3本のマストを持つ全装帆船であった。パンノキ採取の航海に備えた改装により、4門の4ポンド砲[注釈 3]と10門の旋回砲が取り付けられた。
「HMS」と「HMAV」

「バウンティ」は「HMSバウンティ」とも「HMAVバウンティ」とも書かれるが、当時はどちらの呼び方もされたことはなかった。「国王(女王)陛下の船」の省略形「H.M.S.」は1790年代になってから一般的に用いられるようになったものであり、さらにそれがその頭文字のみの「HMS」に変化したのは20世紀になってからである。

「バウンティ」はシップ型の帆装を備えており一般にはシップと呼ばれたが、海軍の軍艦の等級の中には位置づけられていなかったため、海軍の用語としては軍艦には含まれなかった。

軍艦「パンドラ」によって連れ戻された10人の乗組員の軍法会議の記録では、「軍艦バウンティ(His Majesty's Ship "Bounty")」という言葉と「武装船バウンティ(His Majesty's Armed Vessel "Bounty")」ということばが3回ずつ使われており、また他に2回「武装船ザ・バウンティ(His Majesty's Armed Vessel the "Bounty")」が現れる。

1787年の改装工事の図面には「武装輸送船バウンティ("Bounty Armed Transport")」と書かれている。

海軍本部によるバウンティの改装プラン

上段デッキの計画

下段デッキの計画設計図

1787年の遠征航海
準備パンノキを入れた鉢を収容する部分と方法を示す武装輸送船バウンティの改装計画図(ウィリアム・ブライが1792年に著した『南海の旅』より。プロジェクト・グーテンベルクにより参照可能)

イギリス海軍がベシア(バウンティ)を購入した目的はタヒチ島パンノキを西インド諸島に輸送する実験航海に使用するためだった。移植したパンノキが無事に生育すれば、現地の奴隷や入植者たちの安価な食糧源となることが期待されていた。

この計画を提案した植物学者ジョゼフ・バンクスは、遠征隊の指揮官に1776年から1780年にかけて行われたジェームズ・クックの3回目と最後の探検航海にレゾリューション号の航海長として参加したウィリアム・ブライ海尉を推薦した。

1787年6月、バウンティは航海に備えてデトフォード(英語版)で改装された。船長室はパンノキの苗木を収容できるよう改造され、上甲板には光を採り入れるための格子窓が取り付けられた。

8月16日、33歳のブライが正式に船の指揮官に任命された。船の乗組員は彼を含めて46名だった[注釈 4]
航海

1787年12月23日、バウンティはスピットヘッドからタヒチに向けて出航した。南米ホーン岬周辺から西進を試みたが、悪天候に阻まれ丸1ヵ月間足止めされた。ブライは東への転進を選択し、船はアフリカ南端(アガラス岬)を回りインド洋を横断した。航海中、ブライは航海長のジョン・フライヤー(英語版)を降格させフレッチャー・クリスチャンと交代させた。このことでブライとフライヤーの関係には亀裂が生じ、フライヤーは後にブライの人事は個人的な理由から行われたものだと主張した。

1788年10月26日、バウンティは10カ月の航海の末、タヒチに到着した。

一行はタヒチで5か月間を過ごし、その間に西インド諸島に運ぶ1,015株のパンノキ採集し鉢植えにした。ブライはパンノキの世話をさせるため、乗組員が陸上で生活することを許可し、彼らはタヒチの習慣や文化に親しむようになった。彼らは体にタヒチ風の刺青を入れ、航海長代理のクリスチャンは現地の女性Maimitiと結婚するに至った。彼以外の乗組員の中にも現地の女性と関係を持つ者が多くいたと言われている。

1789年4月4日、バウンティはパンノキを積み込んでタヒチを出航した。
反乱と船の破壊詳細は「バウンティ号の反乱」を参照『ブライ海尉と士卒の一部を「バウンティ」から追放する反乱者たち(1789年4月29日)』、ロバート・ドッド(英語版)、1790年

1789年4月28日、タヒチの西約1,300海里 (2,400 km)の地点を航行中のバウンティ船内でクリスチャンを首謀者とする反乱が発生した。反乱者と乗組員の間では強い言葉の遣り取りや脅迫が交わされたが、ブライ以外の乗組員は殆ど抵抗せず、船は無血で奪取された。

反乱者たちはブライと彼に従った船員たちをカッターボートに乗せて追放した。船を追われたブライと部下たちは物資を求めてボートで30海里 (56 km) 離れたトフア(英語版)へ向かったが、現地住民の襲撃を受けて1名が殺され、さらなる逃亡を余儀なくされた。

ブライたちはその後、トフアから3,500海里 (6,500 km) 離れたオランダ人居留地のクパンを目指して航海を続けた。


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