バイロイト音楽祭
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バイロイト音楽祭のメイン会場となるバイロイト祝祭劇場バイロイト祝祭劇場(1882年)バイロイト祝祭劇場の内部.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽ポータル 舞台芸術

バイロイト音楽祭(バイロイトおんがくさい、: Bayreuther Festspiele)は、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトバイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーオペラ楽劇を演目とする音楽祭である。別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭(Richard-Wagner-Festspiele)。なお、日本語では「バイロイト音楽祭」という名称が事実上通例となっているが、ドイツ語のFestspieleには本来「音楽」という意味はない。「バイロイト祝祭」と訳されることもある(例:「バイロイト祝祭管弦楽団」)。
概要

バイロイト音楽祭は、ワーグナー自らが『ニーベルングの指環』を上演するために創設した音楽祭であり、ここで上演されるのはワーグナーのオペラ作品に限られる。ただし『リエンツィ』までの初期の作品は習作と見なされ取り上げられることはなく、上演されるのは『さまよえるオランダ人』(1842年完成)から『パルジファル』(1882年完成)までの7作品10演目である。音楽祭では、毎年夏の音楽界のオフシーズンにあたる7月下旬から8月にかけて、合計約30公演が行われている。バイロイトは、ワーグナー自ら創設した故事と長い伝統により、多くのオペラファンからは今なおワーグナー上演の総本山と見なされ、ワグネリアンの間ではこの音楽祭に行くことを「バイロイト詣」などと称している。ただし、その人気ゆえに、数ある音楽祭の中でもチケットがかなり取りにくい部類に入る。

音楽祭の最高責任者である総監督は、代々リヒャルト・ワーグナーの子孫およびその係累によってのみ受け継がれてきた。現在はリヒャルトの曾孫にあたるカタリーナ・ワーグナーエファ・ワーグナー・パスキエの2人が総監督を務めている。

これまでにリヒャルト・シュトラウスアルトゥーロ・トスカニーニヴィルヘルム・フルトヴェングラーハンス・クナッパーツブッシュ、ヨーゼフ・カイルベルト、カール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤンピエール・ブーレーズカルロス・クライバーダニエル・バレンボイムジェームズ・レヴァインなど、その時代において高名な指揮者が招かれている。日本人では、2005年大植英次が『トリスタンとイゾルデ』を指揮したのが最初である。

楽劇『ニーベルングの指環』4部作(『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』。これらは少なくとも現在は原則として4部作すべてで同一の指揮者・演出家が担当するセット上演であり、単独および分割での上演はない)が上演される年は他の6演目(『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『パルジファル』)の中から3演目、合わせて7演目が上演される。通常、5年連続して『ニーベルングの指環』が上演され、1年おいて新演出の『指環』が上演されるというスケジュールだが、『指環』が上演されない年はそれ以外の6演目の中から5演目が上演される。

ただし、例外的にかつて祝祭劇場の定礎式にワーグナー自身の指揮によってベートーヴェン交響曲第9番がこけら落としとして演奏された由来に基づき、ワーグナー以外の作品では唯一この交響曲が(主に節目の年に)特別に演奏されることがある。第二次大戦で音楽祭がしばらく中断した後、1951年に再開した際の最初の演奏も、ワーグナーのこけら落としにならって、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮による同曲で再開している(この時の演奏はライブ録音されて、レコード、CDとして発売されている)。
歴史
第1回から第二次大戦終結までラインの黄金』の上演(1876年)

ワーグナーはかねてから、己の楽劇を、他人の手に触れさせず己の理想的な形で上演することを夢見て、劇場用の土地を捜し求めていた。しかしなかなか理想的な場所は見つからず、苦心して捜し出した土地も、政治的な理由などで追い出されたりした。やがて親しくしていたバイエルン国王ルートヴィヒ2世により、バイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネプロイセンフリードリヒ2世の姉)が建築した辺境伯劇場があった、バイロイトの地を提供された。だがそこにあった劇場にも満足できなかったワーグナーは、自ら劇場を建築することを決心する。ルートヴィヒ2世からの資金提供を受け、定礎式の収入なども建築費用に充てた。あくまで「仮住まい」として建築されたため、建築費用は抑えられた。余った費用は、別荘であるヴァンフリート館建築などに充てられた。しかし、それ以外の費用(上演用など)は全然足りなかったので、ルートヴィヒ2世に懇願してさらに借金をしている。

1876年、ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ブラジル皇帝ペドロ2世などの国賓や、フランツ・リストアントン・ブルックナーカミーユ・サン=サーンスピョートル・チャイコフスキーエドヴァルド・グリーグの音楽家らの観衆を集め、ハンス・リヒター指揮『ニーベルングの指環』で第1回の音楽祭が開かれた。結果としては大赤字となり、舞台評もあまり芳しくなく、ワーグナー自身もひどいになるほどの落ち込みようだった。また、大赤字が尾を引いたせいで1882年まで音楽祭は開かれず、『指環』も1896年まで上演されなかった。第2回の1882年以降は休みの年を挟みながらなんとか開催されたが、第一次世界大戦と、戦後の混乱の影響で、1915年から1923年までは開催されなかった。1937年のバイロイト音楽祭でのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相とヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相

再開後のエポックは、1930年アルトゥーロ・トスカニーニ初出演であった。


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