バイレンの戦い
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バイレンの戦い
半島戦争

バイレンの投降、ホセ・カサード・デル・アリサール(英語版)作、油画プラド美術館所蔵。

1808年7月16日 - 7月19日
場所スペイン・バイレン(英語版)
結果スペインの勝利

衝突した勢力
フランス第一帝政 スペイン王国
指揮官
ピエール・デュポン (捕虜)
ドミニク・オノレ・アントワーヌ・ヴィーデル(英語版) (捕虜) フランシスコ・カスターニョス(英語版)
テオドール・フォン・レディング
戦力
正規軍21,130[1][2]
騎兵3,300[1]
銃24丁正規軍と民兵27,110[3]
騎兵2,660[3]
銃25丁[3]
被害者数
死者2,200[4]
負傷400[5]
捕虜17,635[6]死者243[4]
負傷735[4]

バイレンの戦い(バイレンのたたかい、英語: Battle of BailenまたはBattle of Baylen)は1808年7月、フランシスコ・カスターニョス(英語版)とテオドール・フォン・レディング率いるスペインのアンダルシア方面軍とフランス第一帝政ピエール・デュポン軍の間で行われた戦闘。最も激しい戦闘はスペイン南部のハエン県グアダルキビール川沿いのバイレン(英語版)の近くで起こった[7]

1808年6月、フランスによるスペインの軍事占領、そして5月2日の反乱(英語版)を経て、ナポレオンはフランス軍から別働隊を編成して、反乱の中心地の鎮圧にあたらせた。そのうち、デュポン将軍率いる1隊はシエラ・モレナ山脈を越えて、アンダルシアを横断してフランス艦隊がスペインに投降した(英語版)カディスまで南下した。皇帝は2万の軍もあれば、抵抗を簡単に潰せるとたかをくくっていた[8]。この目論見は外れ、デュポンは7月にコルドバを攻撃した後、県北まで撤退して増援を待った。一方、サン・ロケでスペイン軍を指揮しているカスターニョス将軍とマラガ総督フォン・レディング将軍はセビリアまで出向いてフンタと討議してカディス県の軍を反フランスに転向させた。

デュポンがアンダルシアを離れなかったことは致命的なミスとなった。7月16日から19日までの間、スペイン軍はグアダルキビール川沿いの村に分散したフランス軍に集中攻撃して、混乱したフランス軍はあちこちに逃げ回る羽目になった。カスターニョスがデュポンを下流のアンドゥハルで釘付けにしている間、レディングはメンギバル(英語版)で橋頭堡を築いてバイレンを掌握、中央位置の戦術(英語版)を採用してフランス軍両翼の中央に移動した。カスターニョスとレディングに挟まれたデュポン軍は3回も突撃して突破しようとしたが、2,500人を失って失敗した。

反撃を跳ね返されたデュポンは停戦を要求し、アンドゥハルの和約への署名を余儀なくされた。和約により1万8千人が投降し、半島戦争最大の降伏となった。デュポンがスペイン軍に包囲されておらず逃走できそうな部下のヴィーデル(英語版)師団にも降伏を強要したことは論争を呼んだ。

この災難的な報せがマドリードのフランス指導部に届くと、彼らは即座にエブロ川へと撤退し、スペインの大半を反乱軍に放棄した。ヨーロッパ全体はこの無敵とも思われた帝国軍の降伏に歓喜した[9]。スペインの武勇伝はオーストリア帝国を勇気づけ、第五次対仏大同盟の成立に繋げた。

この動きを危惧したナポレオンは自らスペイン戦線の指揮を執った。大きく加勢されたフランス軍に動揺したスペイン反乱軍とイギリス同盟軍は手厳しい打撃をくらい、1808年11月にマドリードはフランス軍に再占領された。しかし、この結果はフランス軍を長く苦しい消耗戦に持ち込んだ。スペインのゲリラにより大きな損害を出したフランス軍は結局スペインから追い出され、1814年には南フランスがスペイン、イギリス、ポルトガルの連合軍の侵攻に晒された。
背景

1807年から1808年までの間、何千ものフランス部隊はナポレオンが扇動したスペインによるポルトガル侵攻を支持するためにスペインへ進軍した。ナポレオンはこの機会を捉えてスペイン王家への陰謀を巡らした。フランスの支持を得たスペイン貴族はクーデターを起こしてカルロス4世を退位させ、その結果カルロス4世の子フェルナンドが即位したが、4月にはフェルナンド7世も退位させられ、代わりにジョセフ・ボナパルトが即位した。

しかし、これらの政治決定はスペイン大衆の誰からも支持されなかった。スペイン大衆は廃位されたフェルナンドへの忠誠を宣言し、外国人統治に対し反乱を起こした。マドリード市民は5月2日の反乱(英語版)で150人のフランス兵士を殺害したがジョアシャン・ミュラの近衛兵とマムルーク騎兵に鎮圧された[10]。また、ゲリラが山から降りて主な道路の通行を脅かしたため、ジョセフの王国への進入が遅れた。「あなたは間違いを犯しています。あなたの栄光だけではスペインを征服できません。私は失敗し、あなたの権力の限度が晒されるでしょう。」ジョセフ・ボナパルト、ナポレオンに対し[11]

5月26日、ジョセフ・ボナパルトはマドリードに不在のままスペインと両インドの王[12]を宣言され、彼の使節はスペインのアフランセサード(英語版)[13]に歓迎された。一方、マドリード住民は憤慨して、スペイン軍は反乱軍の支配下にある村へと撤退し、市の治安維持にあたるのはミュラの2万人の銃剣部隊だけだった[14]

首都の外では、フランスの戦略的状況が急速に悪化していた。8万人いたフランス軍は北のパンプローナサン・セバスティアンからマドリードと南のトレドまでとスペイン中部の一部しか掌握できなかった[15]。フランス軍がリウマチによる疝痛に苦しめられている中、指揮官のミュラ自身もかかり、指揮をやめてフランスへ治療に戻った。フォワは、「もし5月2日の虐殺者と呼ばれたこの男が神様に召されたら、スペインの聖職者たちはさぞ喜んだであろう」と回想した[16]。「どんな指揮官よりも警察長官として有名」とされるサヴァリ将軍(英語版)が代わりに指揮をとった[17]

スペインの大半に反乱が起きている中、ナポレオンは難しい状況にある自軍を救うためにまずバイヨンヌでスペイン戦線の基地を設立した。スペイン人を軽視していたナポレオンは力を誇示すればスペイン人は怯み、フランスのスペイン支配も安定すると考えた。この考えを元に、ナポレオンはたくさんの別働隊を組織して、主な反乱軍の根拠地を占拠する策をとった。ベシェール将軍はマドリードから2万5千人でカスティーリャ・ラ・ビエハに侵入、また軍の一部を割いて東のアラゴンへ派遣、サンタンデールサラゴサを攻撃させた。


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