バイラム・ハーン
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アクバルとバイラム・ハーン(アクバル・ナーマ

バイラム・ハーン(ペルシア語: ????? ???‎, ヒンディー語: ???? ???, Bairam Khan/Bayram Khan, 1501年頃 - 1561年1月31日)は、北インドムガル帝国の宰相、摂政、軍総司令官。ペルシア語ではバイラーム・ハーンとも呼ばれる。

バーブルフマーユーンアクバルの3代にわたって仕えた臣でもあり、ハーン・ハーナーン(Khan Khanan・諸王の王)の称号を持っていた。
生涯
ムガル帝国への仕官

バイラム・ハーンはトルコ系カラ・コユンルの流れをくむ一族として、アフガニスタンバダフシャーンに生まれた[1]

カラ・コユンルは西イラン黒羊朝を樹立した部族で、バイラム・ハーンの父と祖父はムガル帝国の皇帝となったバーブルに付き従い、インドに向けての遠征に従軍している。彼自身もまた、16歳の時からバーブルの遠征に従軍するようになった。
フマーユーン、アクバルの重臣としてアクバルに同伴するバイラム・ハーン

バイラム・ハーンはバーブルの後をついで皇帝となったフマーユーンのもとで、グジャラートベンガルヴァーラーナシーなどの戦いで大きな功績を上げた。また、1540年にフマーユーンがスール朝シェール・シャーデリーを追われた際にも、彼に付き従いイランへと赴き、カンダハールの知事となった。

1555年7月にフマーユーンがデリーに戻るまで、バイラム・ハーンはその帰還までに多大な尽力を惜しまず、スール朝の軍勢と戦い、バイラム・ハーンはシルヒンドの戦いで功を上げた。6月にフマーユーンが皇子アクバルを後継者に決めた際、ムヌイム・ハーンをその後見人にしていたが、バイラム・ハーンがこの戦功で交代する形で後見人となり、ムヌイム・ハーンはカーブルにいた別の皇子ミールザー・ハキームの後見人となった[2]

同年1月にフマーユーンが死ぬと、バイラム・ハーンはその後を継いだ幼少の皇帝アクバルの摂政(執政)となった[1]。だが、スール朝の残党であるヘームーが挙兵し、帝国軍との戦いに連勝して北インドの大半を制圧し、10月6日にデリーを占領した。

バイラム・ハーンはアクバルとともにこのときパンジャーブでスール朝の残党を討伐するため遠征していたが、ジャランダルでこのデリー占領を知った。帝国軍20,000人に対してヘームーの軍は100,000人を越し、帝国軍より圧倒的に優勢であることがわかり、戦うか戦わないかで議論になった[3]。家臣の大多数は戦うのは明らかに無謀であり、アフガニスタンのカーブルに逃げたのちに戦力を確保することを進言したが、アクバルとバイラム・ハーンは戦うことを意見し、結局戦うことになった[3]。バイラム・ハーンはまた、何の抵抗なくデリーを敵に明け渡したとして自身のライバルであったタールディー・ベグを処刑した[3]

11月5日、帝国軍とヘームーの軍はパーニーパットで激突したが、戦力の差は圧倒的で、帝国軍はヘームーの大軍に包囲され、敗北寸前に陥った[4]。ヘームーが勝利したと思われたとき、象の上に乗って指揮をしていたヘームーが片目を矢で射られて意識を失い、彼の軍は混乱に陥った[4]

数時間後、ヘームーの軍は潰走し、バイラム・ハーンがヘームーを処刑したことで、第二次パーニーパットの戦いは終結した。帝国軍はヘームーの軍を大量虐殺したのち、同月7日にアクバルは帝都デリーに入城し、ムガル帝国の統治をはじめることとなった。
宮廷内の対立とアクバルの実権掌握

その後、スール朝の残党勢力はムガル帝国に降伏したり、ベンガルやオリッサと地域へと向かった。バイラム・ハーンは権力を握ったが、ムガル帝国内部では対立抗争が始まっていた[4][5]

アクバルは執政バイラム・ハーンの補佐のもと統治を行い、彼のことを「バーバー・ハーン(父なるハーン)」と呼んで重用した[4]。その反面、アクバルは皇帝を凌ぐほどの権力を持つ彼を内心恐れていた[6]。また、ムガル帝国は宮廷ではスンナ派が多数であったにもかかわらず、バイラム・ハーンは少数派のシーア派であり、彼が支持者やシーア派の者を高官に任じたことは古参の貴族から無視されていると非難を買った[7]。そのうえ、タールディー・ベグを自らの判断で処刑したことも尾を引いていた[8]

アクバルがしだいに統治に対して責任感を持つようになると、バイラム・ハーン対立していくこととなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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